作品解説

《戦争の惨禍》は1810年から1820年にかけてフランシスコ・デ・ゴヤが制作した版画(エッチング)作品。ゴヤは板を制作する際、制作意図は特になかったが、美術史家の多くは、1808年にマドリードで発生したフランス軍に対するスペイン市民の反、その後1808年から1814年までの半島戦争、そして1814年のブルボン王朝復興体制による一連の自由主義運動の勃興と頓挫を表現したものだと見なしている。 ナポレオン皇帝とスペイン間での戦争中、ゴヤはスペイン王室の第一宮廷画家の立場にあり、スペントとフランスの支配的立場にある人々の肖像画を制作していた。 当時ゴヤは戦争に強く影響を受け、注文絵画とは別にプライベートで戦争に対する自分の思いを描いた版画を制作していた。その内容はフランス王室の復興とブルボン王朝を批判する内容だった。62歳のゴヤは体調が悪くほとんど聾唖状態で版画制作を始めた。

《魔女の夜宴》は1821年から1823年にかけてフランシスコ・デ・ゴヤが制作した油彩の壁画作品。140.5 × 435.7 cm。『黒い絵』シリーズの1つで、ゴヤが居住していた「聾者の家」の壁に描かれたプライベート装飾絵画である。 暴力、脅威、老い、死などのテーマを探求したもので、ヤギの姿をした悪魔が不気味で恐ろしい魔女集会で、月明かりの下にシルエットのように描写されている。当時、ゴヤは75歳ころで、王宮から離れた孤立した場所で、急性の肉体的・精神的に苦しみながら晩年を過ごしていた。 ゴヤは『黒い絵』シリーズにタイトルを付けておらず、本作品名はゴヤ死後に別の人が付けたものである。《魔女の夜宴》は西洋美術史においては、一般的に「迷信事に対する風刺表現」として引用される事が多い。ゴヤはおそらく当時のスペインにおけるスペイン異端審問を非難・風刺したものだとおもわれる。

《理性の眠りは怪物を生む》は1799年にフランシスコ・デ・ゴヤによって制作されたエッチング作品。1797年から1799年にかけて制作された80枚からなる銅版作品『ロス・カプリチョス(気まぐれ)』の43番目にあたる作品である。1918年にニューヨークの美術ディーラーのノードラー商会がメトロポリタン美術館が寄付し、現在も所蔵している。 ゴヤは宮廷画家と並行して、1790年代から自身の中に眠っている個人的な悪夢を描き始めるようになる。そうして制作されたのが『ロス・カプリチョス』である。ゴヤの悪夢はスペイン社会に対する個人的見解を示しており、本作に描かれているコウモリやフクロウは「無知」や「愚行」を象徴するものである。 No.43にはキャプションとして「理性が放棄あれたファンタジーは信じがたいモンスターを生み出す。彼女(理性)と結びついて、彼女(ファンタジー)は芸術の母であり、驚異の起源である」と記載されている。

《1808年5月2日》は1814年にフランシス・デ・ゴヤによって制作された油彩作品。266 cm × 345 cm。《1808年5月3日》のペア作品で、1808年5月2日にマドリードのプエルタ・デル・ソル近くのアルカラ通りで起こったフランス軍に対するスペイン市民の暴動を描写したものである。現在はマドリードにあるプラド美術館が所蔵している。 1936年にスペイン市民戦争時、マドリードは戦禍を被っていたため、作品はプラド美術館から避難されることになったが、ゴヤの絵を載せたトラックが事故を起こしたため、オリジナル版はかなり損傷したという。その後、1941年に修復され、マドリードに戻された。

《1808年5月3日》は1814年にフランシスコ・デ・ゴヤによって制作された油彩作品。268 cm × 347 cm。現在はマドリードにあるプラド美術館が所蔵している。 本作品は1808年の半島戦争期間中に起きたナポレオン軍に対するのスペイン民衆の抵抗を祝して描いたものである。同サイズのペア作品《1808年5月2日》とともに、スペイン臨時政府から依頼を受けて制作された。 絵画内容、表現、感情的な力は戦争の恐怖を人に伝える典型的な戦争絵画として革新的な地位を確立している。キリスト教美術や伝統的な戦争の分岐点となり、美術史において現代美術の先例の1つとみなされている。 美術史家のケネス・クラークによれば、《1808年5月3日》は主題、スタイル、意図などすべての点において革新的な最も偉大な絵画の1つと評している。《1808年5月3日》は、パブロ・ピカソの《ゲルニカ》や《朝鮮虐殺》、エドゥアール・マネの《皇帝マキシミリアンの処刑》など、のちの多くの有名作品に影響を与えている。

『黒い絵』シリーズは1819年から1923年の間、ゴヤが宮廷画家を引退した後に移り住んだ「聾者の家」の壁に描かれた、14点からな装飾用絵画である。黒をモチーフとした暗い絵が多いため、上記の名で呼ばれている。特に《我が子を食らうサトゥルヌス》が有名。 これまでゴヤは王室やパトロンからの注文で絵画を制作しててきたが、本作は一般公開を目的とせず、ゴヤが個人的に自宅で描いた作品であり、狂気に対する恐怖や人類への暗雲立ち込める未来像など、ゴヤの憂鬱な内面的が表現されている。シュルレアリスム絵画の先駆けと評価されることがある。 1819年、72歳のとき、ゴヤはマドリード郊外にある二階建ての家に移り住んだ。その家屋の以前の所有者は聾者だったため「聾者の家」と呼ばれており、ゴアもまた46歳のときから高血圧が原因の聴覚障害に患わされていため、この家を気に入って、買い取ったといわれる。

《カルロス4世とその家族》は1800年から1801年にかけてフランシスコ・ゴヤによって制作された油彩作品。280 cm × 336 cm。スペイン王カルロス4世とその家族を豪華な衣と宝石で彩って誇張気味に描いた等身大の集団肖像画である。 マドリードにあるプラド美術館が所蔵している。ベラスケスの《女官たち》を手本に、自然主義的で王室らしい環境を背景に王室を主題に描いている。 王家は一見したところ芸術家のアトリエに訪れているように見える。画面左端には鑑賞者の方向からやや目をそらし、キャンバスに絵を描いているゴヤの姿が見えるが、これはベラスケスが自身の姿を《女官たち》で描いた表現を下敷きにしている。 しかしながら、宮殿内部の雰囲気や暖か身の感じるベラスケス作品と異なり、ガッシアの言葉を借りれば「差し迫った窒息感」を感じさせるところがある。

《着衣のマハ》は1800年から1805年にかけてフランシスコ・デ・ゴヤによって制作された油彩作品。1797年から1800年にかけて制作された《裸のマハ》の着衣バージョンで、現在マドリードにあるプラド美術館で、両作品が並んで常設展示されている。 本作は当初スペインの首相マヌエル・デ・ゴドイが所有していたもので、もともとは自宅の玄関前に《裸のマハ》を隠すように前面に吊り下げられており、滑車式の吊り下げ機械を使っていつでも《裸のマハ》が公開できるようになっていた。 「マハ」とは特定の女性の名前ではなく、スペイン、特にアンダルシア地方の民族衣装を着た女性のことを意味する。18世紀には、上流階級の女性がこのような民族衣装を着ることを好んだ。《着衣のマハ》で着衣している衣装がマハの民族衣装である。

《裸のマハ》は1797年から1800年にかけてフランシスコ・デ・ゴヤによって制作された油彩作品。裸の女性がベッド上の枕に寄りかかった姿を描いたもので、おそらく当時のスペインの首相マヌエル・デ・ゴドイから注文で制作されたプライベート注文絵画である。 ゴドイが蒐集していた絵画の中で本作は、ほかの作品と別の場所で飾られていたという。ゴヤはほかに《裸のマハ》と同一の女性とポーズのペア絵画を制作してる。今日、その作品は《着衣のマハ》として知られており、タイトルが示す通り着衣しているバージョンである。ともにプラド美術館が所蔵しており、《裸のマハ》と並べて常設展示されている。

《亡き兄の肖像》は、1963年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。 ダリの両親は、同名の兄が早死したため、兄の生まれ変わりとみなしたダリを可愛がった。しかしそのことはダリにとって複雑な感情を抱かせた。つまり自分は兄の身代わりとしてしか見られていない感情である。また同時に、自分は兄の生まれ変わりであり、まさにエル・サルバドール(救世主)と同様に復活をなした存在であると考えた。 またロイ・リキテンスタインよりも早く工業印刷のベンディ製版法のドットを利用したことで知られる作品である。

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