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壱岐紀仁インタビュー201604

芸術家であり民俗学者でもある映画監督が探求する世界とは

映画「ねぼけ」監督 壱岐紀仁インタビュー Part2


映画「ねぼけ」の壱岐紀仁監督は、自身を芸術家である以上に民俗学者であると考えている。そのため、映画「ねぼけ」では人情ドラマであると同時に、歴史ある鈴本演芸場での入船亭扇遊による人情噺「替り目」や、宮崎県新富町に伝わる「新田神楽」など、民俗学的見地からも目を見張る場面が多数登場する。今回は芸術に民俗学的要素を取り入れた理由を聞いた。(山田太郎)

壱岐紀仁とは


壱岐 紀仁 (いき のりひと)/監督

1980年、宮崎県生。ディレクター、カメラマン。武蔵野美術大学映像学科卒、多摩美術大学修士課程修了。(株)東北新社 Cm演出部に入社、2007年同社を退社後、写真家として活動を開始。瀬々敬久監督作品「へヴンズ・ストーリー」にスタッフとして参加後、映画制作を志す。初の監督作となる映画「ねぼけ」の制作費をクラウドファンディングで調達して話題になる。


映画「ねぼけ」

うだつの上がらない落語家と取り戻せない過去に生きる真海の愛と葛藤の群像劇。クラウンドファンディングによる大規模な資金調達に成功して話題に。第39回モントリオール世界映画祭正式出品作品。新宿ケイズシネマにて、2016年12月17日(土)より劇場公開。

公式サイト:http://neboke.info


神楽と落語に関心をもったのはどうしてでしょうか?

目に見えない『言霊』的な表現を模索していた


まず、僕は美術大学出身で、卒業した後は現代美術の方向へ進みました。でも、どこか僕が表現したい部分と異なる部分がありました。それは、現代美術で活動している芸術家たちの資質ではなく、システムのほうです。現代美術は伝え方がすごく近代的だと感じています。美術史を汲んだ上でパッケージングして、評価の基準がアカデミズムに徹底的に準じていて。

 

西洋美術というと徹底的に“物質主義”みたいな部分があると思います。物質や実空間を提示しないと、いわゆる『美術』として認識されないような。それで色々考えたら、どうやら自分はモノや物質を提示して伝える方法にあまり関心がない事がわかってきました。僕はどちらかというと「目に見えないもの」、物質として提示しづらいものを伝えることに関心がありました。

 

僕は宮本常一先生や水木しげる先生が大好きで、芸術家というよりも民俗学者でありたいという意識が強くあります。水木しげる先生の場合、お婆ちゃんから聞いたお化けや妖怪の世界を話をもとにした「のんのんばあと俺」という作品がありますが、僕も実際に祖母に同じような話を聞かされて育ったこともあり、そのような物質を必要としない『言霊』的な表現を模索していました。

 

それで「目に見えないもの」の表現を探求していくうちに、自然と「落語」と「神楽」に行き着きました。落語は何もない空虚な高座に、何十人という登場人物や江戸のあらゆる建築・街並が立ち昇ってくるのですが、美術のようにモノとして観客に提示しません。神楽は、一時的に神様が人間の身体に降りてきて、身体を借りて遊ぶみたいな感覚、神様自体が見えるわけではありません。

 

それからもう 1 つ、僕には民俗学者でありたいということもあり、日本人の思考回路とか心みたいなものに興味があって、日本人の心のルーツや思考回路を探るという点でも、落語と神楽に表現のヒントを見出していました。僕の解き明かしたい謎を、一気に解決するような。そういった経緯で、神楽と落語を題材にしました。

 

映画監督や批評家の方々からも、1 つの映画の中にテーマが2つあって、実に不思議な映画だなぁといわれたのですが。本当は東京編(落語)だけでいってたらもうちょっとすっきりしていたのでしょうけど。

映画「ねぼけ」では、宮崎県新富町の新田神楽が現れる。モントリオール世界映画祭でも、『鬼神舞』のゲリラ実演が現地で話題になった。
映画「ねぼけ」では、宮崎県新富町の新田神楽が現れる。モントリオール世界映画祭でも、『鬼神舞』のゲリラ実演が現地で話題になった。
映画「ねぼけ」では落語映画でもある。劇中では江戸安政四年より続く歴史ある鈴本演芸場が撮影場所として使われており、入船亭扇遊さんが主人公の師匠役として出演して「替り目」を披露。
映画「ねぼけ」では落語映画でもある。劇中では江戸安政四年より続く歴史ある鈴本演芸場が撮影場所として使われており、入船亭扇遊さんが主人公の師匠役として出演して「替り目」を披露。

神楽を通してどのような事を伝えたかったのでしょうか?

原理的な宗教体験を味わってほしい


「ねぼけ」では、神楽を通して人の心に患っているもの、呪縛を解放することを描こうとしました。神楽そのものを伝えたかったというわけではなく、神楽を通した原理的な宗教体験です。

 

たとえば、映画の中で、ヒロインの真海が神楽の舞手に扮した父と海辺で邂逅するモノクロのシーンがあるわけですが、あそこが「死者との対話」「浄化」のシーンなんです。そのあたりはお客さんも何となくわかっていたと思います。

 

試写会で、観客の女性が『得体のしれない畏れを感じて、神楽面を直視出来ず目を手で覆ってしまった』という感想を頂いたりして、監督として手応えを感じています。お盆とか宗教儀礼というのは、死者と対話することが、何よりも重要な目的となります。それは神との対話でもあります。特にアジア圏では、死んだ人間はみんな霊格が高くなって神様になっていくという発想があります。

 

そうした背景にあって、バリでも日本でも僧侶や神官の一番大事な役割は「死の扉の番人」であること。「ねぼけ」における波打際のシーンというのは、死んで神様になった父と娘の真海が対話する心象風景でもありました。また真海の視点とは別に、客観的なところで、観客にとってたった今、宗教儀礼に立ち会っているかのような疑似体験が出来ることを意図しました。劇場であのシーンを見た人が、「浄化」を共有し、実感できること。

映画「ねぼけ」では印象的な波打際のシーンが幾度となく登場し、劇中で重要な役割を果たしている。
映画「ねぼけ」では印象的な波打際のシーンが幾度となく登場し、劇中で重要な役割を果たしている。

原理的な宗教体験とは具体的にどういったもの?

人をトランス状態にする役割 / 感覚拡張


演出上注意したのは、宗教というものを押し出したくなかったのです。映画は劇場で1800円で鑑賞する間口の広い表現なので、狭義にしたくなかった。できるだけ密教的なものにしたくなかったのです。宗教って、密教的なイメージが付きまとうものです。山にこもっているとか、選ばれし者たちみたいな。

 

そういうものではなくて、元々、神楽が持っているエネルギーというのは、人間の領域を拡張するような効果があります。人をトランス状態にする役割としての宗教ですよね。宗教儀礼においてトランスになった人っていうのは、一例によると、自分が宇宙の星々になったように感じたり、自己の肉体や精神が空や海に溶けて世界そのものになったように感じたりするらしいのです。いわゆる感覚拡張です。

 

オウム真理教事件のあと、宗教に対する見方が極端に一義的に変質してしまったと感じているんですけど、僕は宗教儀礼が本来持っているエネルギーは、人間の感覚を拡張する働きがあると思っています。感覚拡張したときに身体中の穴がバーっと開いて、色々日常で溜まっているストレスや業が流れ落ちていくと思うのですよね。

 

昔の人はその事を感覚的に知っていて、お祭りのときに穴を広げて、終わったら閉めて、

明日からまた頑張ると。それは、飲んで食って寝るのと同じ、人の営みの一部に他なりません。神楽の歴史とか文献を調べると、ストレスや業を解放してあげるための原理宗教みたいな役割を担っています。

 

神楽を知らない人でも、原理宗教のエネルギーのようなものを感覚的に感じて欲しいという思いがありました。「感覚拡張として宗教体験」「原理宗教のような宗教体験」というのは、僕が監督として、映画「ねぼけ」を作る際に一番心を砕いたところです。