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【美術解説】カミーユ・コロー「印象派の形成に影響を与えた画家」

カミーユ・コロー / Camille Corot

私情豊かな風景画や肖像画を描く画家


カミーユ・コロー《真珠の女》1868-1870年
カミーユ・コロー《真珠の女》1868-1870年

概要


 

生年月日 1796年7月16日
死没月日 1875年2月22日
国籍 フランス
表現形式 絵画、版画
ムーブメント 新古典主義、写実主義、バルビゾン派
関連人物 ウジェーヌ・ドラクロワジャン・フランソワ・ミレー
関連サイト WikiArt(作品)

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796年7月16日-1875年2月22日)は、フランスの画家、版画家。風景画で知られる。

 

新古典主義と写実主義の中間を進むようなスタイルにある画家だが、戸外制作で移り変わりゆく太陽の光や影を詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちに影響を与えた。特に、風景画において重要視されており、生涯に3000枚以上の作品を制作。

 

また、美術教師として非常に優れており、弟子から多くの印象派芸術家たちが活躍した。よく知られているのは、カミーユ・ピサロ、ウジェーヌ・ブーダン、ベルト・モリゾ、スタニスラス・レピーヌ、アントワーヌ・シャントルイユ、フランソワ・ルイス・フランセ、シャルル・ルルーなどがいる。

 

コローは、1840年代から偉大な画家として評判を得るようになり、1848年までにパリ・サロンの審査員に選出され、1867年にはサロンの役員にまで昇進する。初期から中期まで不遇な扱いだったが、晩年に多くの人から認められ豊かになった大器晩成型の芸術家だった。

 

コローは自身が築いた財産を周囲の友人たちや社会へ分かちあう慈善家でもあった。1871年に、コローは、パリの貧困層のために2000フランを寄付し、1年後に友人で盲目でホームレス状態にあった芸術家のオノレ・ドーミエのために家を購入した。また、友人の芸術家ジャン・フランソワ・ミレーの未亡人の子どもたちの育児を支援するため1万フランを援助した。

重要ポイント


  • 戸外制作による光の描写はのちの印象派に影響を与えている
  • カミーユ・ピサロやベルト・モリゾなど多数の芸術家を輩出している
  • ゆっくりキャリアを積んで評価を高めた大器晩成型

略歴


幼少期


ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796年7月16日-1875年2月22日)は、フランスの画家、版画家。風景画で知られる。古典主義の系譜にある画家だが、詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちに影響を与えた。

 

コローは、1796年7月16日、パリのリュー・ド・バック125番地に住む裕福な家庭で生まれた。3人兄弟の次男だった。

 

父はウィッグ職人で、母は婦人帽子職人だった。ほかの同時代の芸術家と異なり、コローは両親の投資ビジネスがうまくいっていっていたため、生涯を通じて金に困ることはなかったという。

 

コローの両親は、結婚した後、母親が働いていた婦人帽子店を買収し、父親はウイッグ職人をやめ、経営を始めるようになった。この店はパリジアンたちに人気の店となり、当時、コロー一家はかなりの収入を得ていたという。

 

コローはルーアンにあるリース・ピエール=コルネイユで学ぶための奨学金を得たが、入学能力が難しく寄宿学校へ進むことになった。コローは「優等生ではなかったし、1つも推薦状が得られなかった。」と話している。

 

幼少から才能があり、芸術に強い関心を示していた多くの巨匠とことなり、1815年以前のコローはまだ芸術に関心がなかった。このころ、コローは父親の友人のセネガン一家のもとで生活し、自然の中を散歩して過ごすことが多かった。このような生活がのちに、コローの風景画の礎となった。

 

コローは非常にシャイだった。母親のサロンへよく訪れた美しい女性を目にすると、慌てて恥ずかしくなり逃げたほどだという。コローは優しく行儀のよい子どもだった。母親が大好きだったが、父親が苦手で話すときは震えることが多かったともいう。

 

1817年にコローの両親が新しい住居へ移ると、21歳のコローは3階のドーマーウインドウのある部屋を自室兼アトリエとして利用した。

 

父の援助でコローは呉服屋に弟子入りしたが、コローは商売的な生活を嫌い、それを"ビジネストリック"と呼んで軽蔑した。その後、父親がプロの画家となることを許す26歳まで、コローは誠実に貿易業を営むことになった。

 

のちにコローは「ビジネスと私は相性が悪すぎるし、続ければきっと破滅的になるだろうと父親に話した」と話している。しかしながら、呉服の仕事で布の色やテクスチャーに触れていた経験は、のちに芸術感覚を発展させるのに役立つようになった。おそらく退屈な状態から、彼は1821年ごろに油彩絵画に戻り、風景画を描きはじめた。

 

1822年のはじめ、妹が亡くなると、コローは新しい仕事、アトリエ、材料、旅行費を工面するのに十分な資金、年間1500フランの手当を受けるようになった。その後すぐにパリのクアイフ・ヴォルテールにアトリエを借りた。

 

コローが本格的に芸術制作をはじめたころ、フランスでは風景画の人気が高まっており、一般的に2つの流派に分かれていた。1つは南ヨーロッパを中心とした新古典主義派による風景画で歴史や神話、聖書で現れる人々が暮らしていた時代や理想化された現実の風景を描く流派だった。

 

もう1つは北欧を中心とした現在の自然風景、建築、植物、および農民の姿を描く流派だった。どちらも風景画家たちは、通常、屋外スケッチと習作的な絵画から始めて、アトリエなど屋内で仕上げ作業を行った。

 

19世紀初頭にフランスの風景画家たちに大きな影響力を与えたのは、イギリス人画家のジョン・コンスタブルとJ. M. W.ターナーの作品だった。これらの作品の影響で写実主義が流行しはじめ、一方で新古典主義は人気がなくなっていった。

 

1821年から1822年の短い間、コローはアシール=エトナ・ミシャロンのもとで学ぶ。彼はコローの時代においてジャンル・ルイ・ダヴィッドの後継者とされていた風景画家だった。ミシャロンはコローの仕事に多大な影響を与えた。コローのドローイング訓練には、リトグラフのトレース、三次元形態の模写、風景のスケッチや戸外制作などが含まれる。

 

戸外制作はフォンテンブローの森やノルマンディー海岸の港湾、ヴィル・ダブレー(両親が別荘を所有していた場所)のようなパリ西部の村で行うことが多かった。ミシャロンは、フランスの新古典主義の伝統の原則をコローに教え、特に理論家ピエール=アンリ・ド・バレシエンヌの著名な理論を支持していた。

 

フランスの新古典主義派クロード・ローランやニコラス・プッサンの作品に見られるように、古代の出来事と関連した自然における理想化された美の表現がミシャロンの指南のポイントだった。

 

新古典主義は衰退しつつあったが、数千人以上来客するフランスの最前線性の美術展パリ・サロンでは、まだ権威性を維持していた。「私は自然風景から作品を制作した。唯一のアドバイスは自分の目の前で見たものすべてを細密に描写することです」とコローはのちに話している。

 

1822年にミシャロンが亡くなると、ミシャロンの師匠にあたるジャン=ビクター・ベルタンのもとで学ぶ。彼はフランスで最も有名な新古典主義の風景画家の一人として知られており、コローは植物を主題としたリトグラフのコピーを描き、正確な有機的形状を描く能力を身につけた。

 

コローは新古典主義を高く評価していたが、コロー自身は想像上の自然の中に寓意的な伝統で主題に限定して描くことはなかった。コローのノートブックには北方リアリズムの影響を示す木の幹、岩、植物などの正確なスケッチが残っている。

イタリア留学


両親の支援を得て、コローはイタリアのルネサンスの巨匠の絵画を学び、また古代ローマの崩れた遺跡を描くため、イタリアを旅行したフランスの画家たちと同じ道をたどることにする。

 

1825年から1828年までコローはイタリアに滞在することになるが、イタリア滞在期は非常に生産的だった。200点以上のドローイングと150点以上の絵画を制作している。

 

コローは、現地で若いフランス画家たちと共同制作したり、旅をしたり、夜にはカフェでコミュニケーションを交わし、互いの作品の批評をし、うわさ話をして過ごした。

 

なお、コローはイタリアでルネサンスの巨匠からはほとんど学ばなかった(のちに彼はお気に入りの画家としてレオナルド・ダ・ヴィンチを引用した)。

 

イタリア滞在中、コローは古代遺跡の素晴らしい眺望があるファルネーゼ庭園によく足を運び、朝、昼、夜と異なる時間ごとの景色を描いた。ここでの練習は、中規模もしくはパノラマ的な眺望の両方の視点で描いたり、効果的に人工構造物や自然環境を配置することを考えて絵画制作をする上で特に役立ったという。

 

コローは、滑らかで薄い筆致を使って建物や岩に適切な光や影を置き、対象に硬度やボリューム感をいかに出すか研究した。また、世俗的な背景に適切な人物を配置する構図問題、配置する人間の属性や大きさ、寓意的な背景の描き方などを研究した。そのため、コローは衣服を着た人物造形と同等にヌード画にも積極的に取り組んだ。

 

冬の間、コローは屋外ではなくおもにアトリエで絵を描いて過ごしたが、良好な天気の日はできる限り戸外制作をおこなった。イタリアの強烈な陽光は大きな課題だった。「太陽は私を絶望させる光を放つ。私のパレットを完全に無力にさせる」。とコローは話している。コローはイタリアで光の効果を学び、繊細で劇的な変化する風景で石や空を描いた。この戸外制作での光の変化は、のちの印象派に大きな影響を与える。

 

コローが注目したのは、イタリアの建築や陽光だけではない。イタリアの女性にも注目していた。「イタリア人は私が会った世界で最も美しい女性です。彼女たちの目、彼女たちの肩、彼女たちの手は花々しい。フランス人より綺麗だが、一歩ではイタリア人は優雅さや親切さにおいて平等性がない。私自身、絵を描く対象としてはイタリアの女性が好きだが、感情的な面になるとフランス人女性の方へ傾いてしまう」とコローは話している。

 

コローは女性に強い関心を示していたにもかかわらず、絵画に対する強い執着も話しており、葛藤していたのがわかる。「私は人生において私が真剣に取り組みたい目標が1つだけあります。この確固たる決意は深遠な愛慕によって成り立ちます。つまり、結婚です。しかし、私の独身的な気質や美術に対する真摯な取り組みが結婚問題を阻害する要因になっています」。

 

イタリアの女性にも関心を持ったが、コローは絵画に人生を捧げると決めていたので、生涯独身だった。

《La Trinité-des-Monts, seen from the Villa Medici》1825-1828
《La Trinité-des-Monts, seen from the Villa Medici》1825-1828
《ナル二の橋》1826年
《ナル二の橋》1826年

パリ・サロンへの出品


1834年、2度目のイタリア訪問時にコローは、パリ・サロンで発表するための巨大風景画の取り組みを始める。

 

サロンに出品した絵画のいくつかは、アカデミズムの伝統に沿った新古典主義の原則に従いつつ、自身で想像した形式的な要素を追加して、アトリエで手直ししたイタリアで制作した絵画だった。

 

1827年、パリ・サロンに出品した《ナル二の風景》が初めて入選する。ほこりっぽく明るい太陽の下、ローマの水道橋の残骸の風景が巨大な陰影のある木々や緑の芝生を使って偽りの明るい牧歌的な田園の姿に変化させられている。意図的に新古典主義の審査員たちにアピールした作品だと考えられている。

 

多くの批評家たちが、この空想的なイタリア絵画を高く評価しており、その自然光に対する忠実な再現と、これまでのアカデミックな価値観の逸脱から"印象派の萌芽"とも呼ばれている。数十年後、戸外で素早く自然の姿を描きとる印象派の革命的な芸術の原点は、まさしくコローの作品制作過程が源泉にあったといってよいだろう。

 

しかしながら、印象派の画家は光やムードを捉えるために純粋色を素早く使っていたのに対して、コローの場合は通常、画面に夢のような効果を与えるために色を混ぜあわせていた点が異なる。

《ナル二の風景》1827年
《ナル二の風景》1827年

アトリエの外にいるときコローはフランス中を旅し、イタリアで身に付けた描写方法で、各地の素朴な風景を集中して描いた。

 

若いころに住んでいた街のルーアンやノルマンディー海岸に戻ると、コローは友人や親戚の肖像画を描いて、初めて手数料を受け取った。

 

1830年に描いたコローの姪の肖像画、パウダーブルーのドレスを着た女性の肖像画《アレクシーナ・ルドゥー》は、のちに最も評価の高い作品となり、ルーブル美術館が所蔵することになった。

 

コローは一般的に家族の肖像画を2枚ずつ制作した。1枚は主題であり、もう1枚は家族のためのものであり、またしばしば同じように風景画も2枚制作することがあった。

《アレクシーナ・ルドゥー》1830年
《アレクシーナ・ルドゥー》1830年

1829年の春、コローはバルビゾンへ移り、フォンテーヌの森で戸外制作を始める。コローは1822年シャリーの森で初めて戸外制作をしている。1830年の秋に再びバルビゾンに戻り、1831年の夏に、そこでドローイングや油彩の習作がを制作する。

 

それらの作品は1830年のパリ・サロンへ出品する目的でもあった。現在ワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵している1830年の《フォンテーヌの森の風景》や、1831年のサロンに出品した《フォンテーヌの森の風景》がそれである。サロンでの審査員によるコローの評価はいまいちだった。結局コローは、新古典主義の主題で審査員を満足させることができなかったので、イタリアへ戻ることになった。

 

なお、バルビゾンに滞在している間、コローはテオドール・ルソー、ポール・ユエ、コンスタン・トロワイヨン、ジャン=フランソワ・ミレー、シャルル=フランソワ・ドービニーといったバルビゾン派の会員と交流しており、こうした交流からコローも美術史においてバルビゾン派と認識されるようになる。

《フォンテーヌの森の風景》1830年
《フォンテーヌの森の風景》1830年

中期


2度のイタリア旅行をしている間、コローは北イタリアのヴェネツィアやローマの郊外を訪れた。1835年に制作して、パリ・サロンに出品した《荒野のヘイガー》はセンセーショナルを巻き起こした。

 

この作品は、砂漠で餓死しているサラおばあさんと子どもを天使が救う場面を描写したものである。背景の自然はおそらくイタリア滞在時の習作を基盤にしている。コローは聖書的、または神話的な主題を踏襲させたが、サロンでの批評家たちはコローはプッサンとの比較を望んでいると思われるだけで、評価はおもわしくなかった。

 

1840年代になってもコローの評価はずっとかんばしくなかった。サロンに出品しても、その多くは落選した。一般大衆にも人気がなく、作品もほとんど売れなかった。

 

1845年にボードリヤールが、「コローこそ、現代の風景画」のリーダーだと先頭に立って宣告してから徐々に業界内で注目が集まりはじめる

 

「コローの色は薄く、作品は平凡で下手くそだ」と批判するものもいたが、ボードリヤールは、そうした批判に対して「コローは色彩を重視するカラリストよりも作品全体の調和を重視するハーモニストであり、全体的に常に衒学的でなく、色がシンプルだからこそ魅力的なのである」と反論した。

《荒野のヘイガー》1835年
《荒野のヘイガー》1835年
《ヴィネツィア、ピアッツェッタ》1835年
《ヴィネツィア、ピアッツェッタ》1835年

1846年、コローはフランス政府からジオンドヌール勲章のクロスが授与され、1848年にはサロンで二等賞メダルを受賞したものの、その後、ほとんど仕事につながる経済的な支援はなかった。唯一の注文絵画作品は、1847年に制作した洗礼会堂のために制作したルネサンス巨匠風の宗教画だった。

 

このころになると、サロンの主流派の勢いは衰えはじめたが、画家たちはコローの絵画を認めるようになりはじめた。1847年にドラクロワ「コローは真の芸術家です。コローの価値観を知るために、彼自身の立ち位置で1人の絵描きとして見る必要がある。コローは対象を深く掘り下げている。思いついたことがあれば、制作中に彼はそれを追加します。それは正しいアプローチです」とジャーナル誌で批評している。

 

また、ドラクロワの推薦で、画家のコンスタン・デュティユーがコローの絵画を購入し、またこれをきっかけにデュティユーはコローと友好関係を築き、長い間コローのパトロンとなって支援した。

コローの一般大衆の人気は、1848年革命以後、コローがサロンの審査員に任命されてから劇的に変化しはじめた。また、1867年にはサロンの役員に昇進した。

 

女性との関係を長期間断ち切り、コローは50歳になっても両親と非常に親密な状態にあった。同時代の人はコローについて「コローは無意識的にクリスチャン的な行動を取っている人です。彼は自身の自由を母をにゆだねていた。コローは外出許可を得るのに何度も母親に頼まなければならなかった」と話している。

 

頻繁な旅行趣味とは別に、普段はコローは両親がなくなるまでずっと家族に密接に束縛された状態だった。両親の死後、ついにコローは自由に行動ができるようになった。自由のおかげでコローは美術教室を開校できるようになった。生徒の中にはエドゥアール・ブランドンや未来の印象派作家となるカミーユ・ピサロなどがいた。

 

コローの活力や鋭敏な助言に生徒たちは感銘を受け、評判はよかった。シャルル=フランソワ・ドービニーは「コローは完璧な老紳士で、ファーザー・コローです。彼は全く素晴らしい人で、ジョークを混ぜながらとても素晴らしいアドバイスをしてくれました」と話している。

 

1850年代なかばまでに、コローは印象派的な様式が増し、フランス美術界においてコローは印象派の文脈に位置づけられはじめた。1850年代からコローは、多くの景観や旅行先の名所、ランドスケープ、以前に訪れたことのある場所を記憶をもとに軽快でゆるやかにストロークで描くようになった。

晩年


コローのアトリエには、学生、モデル、友人、コレクター、画商などがたくさん集まり人気が高かった。画商はコローの作品を購入し、価格は油彩絵画1枚につき4000フラン以上の値が相場になっていた。

 

晩年に成功したおかげで、コローは経済的にも時間的にも有意義に使うことができた。コローはフランス芸術家コミュニティの長老となり、ほかの芸術家が作品の注文を得るの大きな影響力を持っていた。コローは晩年の1868年から1870年にかけて、のちにコローの代表作となる《真珠の女性》《読書をする女性》を制作している。

 

1871年にコローはパリの貧しい人々のために2000ポンドを寄付する。普仏戦争ではプロシア人に取り囲まれこともあった。パリ・コミューンの時代にコローはアルフレッド・ロバートとアラスへ避難。

 

1872年にオーヴェルで家を購入し、当時、ドーミエは盲目で、資産がなく、ホームレスの状態だったオノレ・ドーミエにプレゼントした。1875年にコローは、死去した友人ジャン・フランソワ・ミレーや子どもや未亡人の生活を支援のために10000フランを寄付した。彼はまたパリのヴァンドルザンヌ通り上にいる孤児の支援活動も行った。

 

コローの晩年は謙虚で控えめで、政治的にはノンポリで、幸せな生活を送った。「人はプライドを持って威張るべきではない」というのがコローの固い信念だった。

 

芸術家、コレクター、批評家、多くの友人たちから大きな賞賛や信頼を得ていたもかかわらず、コローは官展やアカデミズムからは冷遇され続けた。1874年、彼のなくなる前の直前になって、サロンはコローにゴールドメダルを授与した。パリで78歳で死去し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

 

のちに、コローの弟子から多くの優れた芸術家たちが活躍した。よく知られているのは、カミーユ・ピサロ、ウジェーヌ・ブーダン、ベルト・モリゾ、スタニスラス・レピーヌ、アントワーヌ・シャントルイユ、フランソワ・ルイス・フランセ、シャルル・ルルーなどがいる。

《真珠の女性》1868-1870年
《真珠の女性》1868-1870年
《読書をする女性》1869-1870年
《読書をする女性》1869-1870年

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