【美術解説】カミーユ・ピサロ「印象派と後期印象派の両方で活躍」

カミーユ・ピサロ / Camille Pissarro

印象派と後期印象派の両方で活躍


カミーユ・ピサロ《ジャレの丘》1882年
カミーユ・ピサロ《ジャレの丘》1882年

概要


生年月日 1830年7月10日
死没月日 1903年11月13日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派、新印象派、後期印象派
関連人物 ジョルジュ・スーラ、ポール・ゴーギャン
関連サイト WikiArt(作品)

カミーユ・ピサロ(1830年7月10日-1903年11月13日)は、デンマーク植民地時代のセント・トーマス島で生まれたデンマーク系フランス人画家。印象派および新印象派の画家。

 

1874年から1886年の間に8度開催された印象派展すべてに参加した唯一の画家。ピサロの美術史における重要性とは、前期印象派と後期印象派の両方に貢献したことである。

 

ピサロは、ギュスターヴ・クールベジャン=バティスト・カミーユ・コローなど、偉大な先駆者から学ぶ。その後、印象派展に参加しつつ、54歳で新印象派のスタイルを採用し、ジョルジュ・スーラとポール・シニャックら新しい世代の印象派らとともに印象派の発展に貢献する。

 

ピサロが主題として描いたものは、パリや都市の風俗描いたドガやルノワールとは対照的に農村の自然と人物である。幼少時に過ごしたセント・トーマス島の大自然の体験が制作背景にある。

 

ピサロは、ジョルジュ・スーラポール・セザンヌヴィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャン後期印象派の父親的立場としても活動。ポール・セザンヌは「彼は私の父のような存在だ。相談できる男で、良君主のようだった」と話している。また、ピサロはポール・ゴーギャンの絵の師匠でもあった。

 

美術史家のジョン・リウォルドは、ピサロを"印象派画家の学長"と呼び、グループで最年長だっただけでなく、知恵とバランスの取れた、親切で温かい人格の持ち主と評した。

重要ポイント

  • 印象派の創立者であり、唯一すべての印象派展に参加
  • スーラ、ゴーギャンらポスト印象派画家の貢献に活躍
  • 田舎や農村の自然風景を好んで描いた

略歴


若齢期


ジャコブ・アブラハム・カミーユ・ピサロは、1830年7月10日デンマーク領時代のセント・トーマス島で、父フレデリックとマンザーノ・デ・ピサロの間に生まれた。

 

父はポルトガル系ユダヤ人移民でフランス国籍を取得していた。母はセント・トーマス島出身のフランス系ユダヤ人だった。父は叔父の金物店で扱う商品をフランスからフランスからセント・トーマス島へ運ぶ商人だった。

 

ピサロが12歳になると父親はフランスの学校へ留学させた。ピサロはパリ近郊のパッシーにあるサバリー・アカデミーで学んだ。学生時代にピサロはフランス美術の巨匠絵画の鑑賞力を身に付けた。サバリー自身がピサロにドローイングやペインティングの基礎訓練を教え、ピサロが17歳のとき、故郷のセント・トーマス島に帰ったら、島の自然を描写する画家になるようすすめた。

 

しかし、ピサロの父は、仕事を継ぐ事を望んでおり、ピサロに貨物員の仕事をさせた。それから5年間ピサロは、仕事後や休憩中にドローイングの練習をし続けた。

 

1850年、ピサロが21歳のとき、フリッツ・メルビューがセント・トーマス島へ移住してくれると、ピサロは彼から影響を受け、本格的に画家を志すことを決め、フルタイムでメルビューから絵画を学ぶ。

 

その後、ピサロは家族や仕事を捨てて、1852年にベネズエラへメルビューとともに移り、カラカスやラ・グアイラで2年過ごした。ピサロは毎日、自然や村の風景を描き、膨大な数のスケッチを制作した。

 

1855年にパリへ移り、フリッツ・メルビューの兄アントン・メルビューの助手として働くようになる。

《農村住宅とヤシの木がある熱帯の風》1853年
《農村住宅とヤシの木がある熱帯の風》1853年

パリ時代


パリでオランダの画家アントン・メルビューのもとで学びつつ、ピサロはほかのパリの同時代の画家たちからも多大な影響を受ける。なかでも、クールベ、シャルル=フランソワ・ドービニー、ジャン=フランソワ・ミレーカミーユ・コローから影響を受けた。

 

また、エコール・デ・ボザールやアカデミー・シュイスなど、さまざまな授業に登録して、巨匠たちから直接絵を学んだ。しかし、ピサロは学校で学ぶ技術は「息苦しい」と感じたと、のちに美術史家のジョンリウォルドに話している。この体験はピサロに別の手段を探すきっかけとなった。

 

ピサロの初期の絵画は、パリ・サロンで展示可能な技術水準に達していた。パリ・サロンの審査員の好みを満たす伝統的、かつ規定された方法で描かれた古典的な絵画だったため、1859年に出品した《モンモランシーの風景》が審査に受かり、展示された。

 

その時代のほかの絵画には、カミーユ・コローの影響が見られる作品もあった。ピサロもコローも共通して自然豊かな田舎の風景を愛していた。コローによれば、ピサロは戸外で絵を描く衝動にかられており、戸外での絵画制作のことを「プレーン・エアー」絵画と呼んでいたという。

 

このころ、ピサロは不純物のない自然美をキャンバスに表現する重要性を認め、理解しはじめた。パリで1年過ごした後、彼は故郷を離れ、田舎の風景を描き始め、日々の村の生活を写実的に描きはじめた。

 

ピサロはフランスの田園地帯に対して「絵画的な美しさ」を感じ、それを絵にする価値を感じていた。おもに農村の風景であり、「農民の黄金時代」と呼ばれた。ピサロはのちに、学生に戸外での海外制作技術について説明している。

 

「空、水、枝、大地を同時に描き、すべてのものを対等に置き、自分が納得するまで何度も出修正すること。最初に感じた「印象」を失わないことが重要なため、おおらかにまた躊躇なく描くこと」。

 

しかしながら、カミーユ・コローは屋外で風景をスケッチしたあと、アトリエでしばしば自分の先入観を排除し修正して排除した。一方のピサロは屋外で座りながら絵を最後まで完成させることを好み、作品をより現実的な風景にした。そのため、ピサロの作品はときどき、彼が見た美しくないオブジェクト(わだち、ごちゃごちゃした草むら、土手、さまざまな発育段階の樹々)もそのまま描いたので「下品」と批評されることがあった。

 

ほかにも、通りの端にあるゴミ箱やビール瓶を描くなど、今日の芸術に相当するものも詳細に描いている。このスタイルの違いはピサロとコローの間で意見の不一致を引き起こした。

印象派グループとの出会い


1859年、無料の美術学校アカデミー・シュイスに通っている間、ピサロはクロード・モネアルマン・ギヨマンポール・セザンヌなど自分と同じ用に写実的なスタイルで制作することを好んでいた若い画家たちとたくさん知り合う。

 

彼らが共通していたのはサロンの審査基準だった。セザンヌの作品は当時、学校では他の人から嘲笑されていたが、ピサロは決してセザンヌをあわれんだり、ながしろにすることはなく、作品を理解して励ましていた。

 

1863年、美術学校の仲間たちの絵画のほとんどはサロンの審査に落選、代わりにフランス皇帝ナポレオン3世はサロン・ド・レフュッセのホールに落選した絵を展示することにした。しかしながら、そこにもピサロとセザンヌの絵は展示されなかった。サロン・ド・レフュッセの展覧会は、パリ・サロンと一般大衆の両方から批判的な目で見られた。

 

1865年と1866年のサロン展のころは、カタログに自身が影響を受けている画家にコローやメルビューを記載していたが、1868年になると影響を受けたほかの画家の名前を記載しなくなり、事実上独立した画家であることを主張しはじめた。これは当時、美術評論家のエミール・ゾラが彼の主張を後押しした。「カミーユ・ピサロは今日、3〜4人ぐらいしかいない真の画家の1人です。私はめったにこのような確かな技術に遭遇することはない」

 

38歳のとき、ピサロはライバルのコローやドービニーらとともに風景画の画家としての評価が高まりはじめる。

 

1860年代後半から1870年代初頭にかけて、ピサロは日本の版画に関心を抱き、新しい構図の実験作品に取り組みはじめた。

 

1871年、クロイドンで彼は母のメイドでブドウ栽培農家の娘だったジュリー・ヴァレイと結婚。彼女との間に7人の子どもをもうけた。2人はパリ郊外のポントワーズに住み、のちにルーヴシエンヌに移り住んだ。

 

両方の場所で村人の生活風景、川、森林、同僚の絵画から影響を受けた。また以前の印象派グループのメンバーだったモネ、ルノワール、セザンヌ、バジールらと連絡を取り合った。

《ジャレの丘》1867年
《ジャレの丘》1867年
《ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道》1869年
《ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道》1869年

ロンドン時代


1870−1871年の普仏戦争の後、デンマーク国籍しかなく兵役につけなかったピサロは家族とともにロンドン郊外の村ノーウッドへ移る。しかし、彼の絵画スタイル、のちに「印象派」と呼ばれるものは前衛的だったので、ロンドンでは受けいられなかった。ピサロは友人への手紙に「私の絵画はまったく関心を持たれていない」書いている。

 

ピサロはパリの画商ポール・デュラン・リュエルとロンドンで出会い、デュラン・リュエルはピサロ作品販売の手助けを生涯行うことになった。デュラン・リュエルはこの時期にロンドンに滞在していたモネと連絡を取るようすすめた。

 

こうしてピサロとモネはロンドンで会い、2人はイギリスの風景画家ジョン・コンスタブルやJ.M.Wターナーらの作品を鑑賞し、モネとピサロは戸外制作にはアトリエ内での制作では作れない光や雰囲気を描写することが可能であるという信念を再確認したという。

 

また、ピサロは、より自発的にゆるやかな混合のブラシストロークと厚塗りする部分を使いわけるようになり、作品全体に深遠さが出るように工夫するようになった。

 

ロンドン滞在中、ちょうどこの時代に鉄道で結ばれる前のシドナムやノーウッドの田舎の風景を記録する絵画を制作した。この時代は鉄道が発展して郊外都市が拡大する直前だった。

 

これらの絵画の最も大きな作品の1つはローリー・バーク・ロード沿いにある聖バルトロメオ教会で見ることができる。代表的な作品は1871年の《シドノム通り》である。現在、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している。

 

ピサロはアッパー・ノーウッドに滞在時に12枚の油彩作品が制作されている。これらの作品は、ピサロの第5子ルドヴィッチ・ロドルフェ・ピサロとライオネット・ベンチェリらがカタログ・レゼネでリスト化し、1939年に出版された。

 

フランス帰国後、1890年に再びピサロはイギリスを訪問し、ロンドン中心部の風景画を数枚描いた。その後も何度もロンドンを訪問し、1892年には、キューガーデンやキューグリーン、1897年にはベッドフォード・パークやチジックの風景を描写し、またスタンフォード・ブルック地域の風景を描いた。

《ボアザン村の入り口》1872年
《ボアザン村の入り口》1872年
《シドノム通り》1871年
《シドノム通り》1871年

印象派展の設立


ピサロが戦後にフランスに帰国すると、戦前に自宅に残していた20年以上かけて制作した1,500枚の絵画が、戦災でわずか40枚だけになっていた。残った作品も兵士によって損なわれた、破壊されていた。兵士はしばしば絵画を外で、泥の上に敷きマット代わりにして靴を汚さないようにしていたという。

 

1872年4月から1882年末までオワーズ川のほとり、ポントワーズのエルミタージュ地区に住んだ。ここで畑を耕す農民や、道を行き交う人々、市場の様子など、田園の日常の姿を描いていった。ロンドンで出会ったデュラン=リュエルが絵画を購入してくれたので、生活は安定しはじめていた。

 

損失した絵画の多くは、ピサロがその後に展開した印象派スタイルそのものだったので、それゆえ「印象派誕生の記録」と呼ばれている。美術批評家のアルモン・シルヴェストルは、ピサロについて「真の印象派絵画の創設者」と見なしている

 

しかしながら、実際の印象派運動におけるピサロの役割は、「優れた助言者であり庇護者であり、素晴らしいアイデアを実行するほどではない。創設者であるモネを指導する役割」というものだった。

 

フランスに戻るとすぐに、セザンヌ、モネ、マネ、ルノワール、ドガら初期印象派グループたちとの交友を再確立する。ピサロは自身の意見をグループに表明し、パリ・サロンとは別の独自のスタイルの作品が展示可能な展示を立ち上げようとしていた。

 

パリ・サロンとは別の展示を開催するため、1873年12月27日にピサロは、「画家・彫刻家・版画家の共同出資会社」の設立に参加した。この組織にはピサロ、ドガ、モネなど15人の画家が参加した。ピサロはグループの最初の規約を作成し、ともにグループを設立して運営する重要責任者となった。1874年1月17日にピサロは規約を作成した。

 

43歳ですでに真っ白な髭で、老け顔だったピサロは、グループにおいては「懸命な年長者であり父的存在」とみなされていた。しかし、実際はまだ若い気質と創造性を持っていたピサロ、ほかの画家たちと肩を並べるように制作活動をしていた。

 

1874年の後、ピサロたちは最初の「印象派展」を開催する。この展覧会では宗教的、歴史的、神話的な状況で背景を描き、主題はあくまで人物であることが当たり前と考えていた批評家に衝撃を与えた。批評家は多くの理由で印象派の作品を非難した。

 

・主題が日常生活における道で見かける一般大衆となっており、「下品」であり「平凡」であること。たとえば、ピサロの絵は泥だけの汚い道とぼさぼさに茂った樹々が描かれていた。

 

・同時代の古典主義と比較して描画技術があまりに大雑把で未完成のように見えること。筆跡が丸見えとなっている表現主義的な筆使いは、何週間にもわたって作品を緻密に制作してきた伝統的な芸術家たちの技術を侮辱しているように思えた。ここにある絵画は一気に描かれ、ウェット オン ウェット手法のように見えた。

 

・印象派の色使いは、よく周囲の見えない物体の反射光で影を描くなど、彼らが発明した新しい理論を当てにしていたこと。

 

ピサロは、第1回印象派展に《果樹園》、《白い霜》など5点を出品した。批評家ルイ・ルロワはピサロの《白い霜》を取り上げ、登場人物に「汚いキャンバスの上に、パレットの削り屑を一様に置いているだけでしょう」と語らせている。しかし、エミール・ゾラはピサロ作品を絶賛した。

 

第1回印象派展は、経済的には失敗で、共同出資会社は、同年12月に債務清算のため解散した。

《果樹園》1872年
《果樹園》1872年
《白い霜》1873年
《白い霜》1873年

1876年の印象派展の展示では、しかしながら美術批評家のアルバート・ウォルフは「ピサロ氏には次のことを理解させてほしい。木々は紫色ではないこと、空は新鮮なバター色ではないこと」と批判した。一方でジャーナリストで批評家のオクターヴ・ミルボーは「彼が絵画に導入した生命を与える描写方法は革新的だった」と評している。

 

後年、スザンヌはこの時代を振り返ったとき、ピサロのこと「一番の印象派画家」と評した。1906年にピサロがなくなってから、67歳のセザンヌが新世代の前衛芸術家のロールモデルとなったが、展覧会のカタログで「ピサロの弟子ポール・セザンヌ」と記載して、ピサロに感謝の念を払った。

新印象派


1880年代ころから、ピサロは自身の芸術に「ぬかるみ」を感じ、そこから脱却するため絵画の新しい主題や方法を探し始めた。その結果、ピサロは若年時代にベネズエラでしていた「国民の生活」を描くという初期主題に戻ることした。ドガはピサロ作品の主題について、「生きるため働いている農民」と評している。

 

この時代のピサロの意図は、人々の生活を理想化することではなく、現実的な環境下で職場や家で働く人々を描くことで「庶民を教育する」ことだった。ルノワールは1882年に、この時代のピサロの作品について、上流階級ではなく「ごく平凡な人々」の描写を試みていると話している。

 

ピサロ自身は公然と政治的意図を訴えるために芸術を利用することはなかったが、粗末で下卑と見られがちな主題を描きがち作品は、上流階級の顧客をターゲットにしていると見られがちでもあった。

 

また、この時代はピサロの印象派からの離脱とともに印象派の終わりを告げるときでもあった。

1884年画商のテオ・ヴァン・ゴッホはピサロに兄ヴィンセント・ファン・ゴッホを紹介する。リュシアン・ピサロによれば、父はヴァン・ゴッホの作品に大変感銘し、23歳年の離れた若いゴッホに対して、大芸術家となる予感を感じたという。

 

1885年、ピサロはジョルジュ・スーラやポール・シニャックと出会う。両者の作品とも遠くから見たときに、混合色や陰影の錯覚を網膜上で起こすため、非常に小さな純粋色の点描で制作をする光学的理論を使っていた。それが点描法である。ピサロは2人と出会ってから自分の求めているものだと感じ、1885年から1888年まで、点描法を自身の作品に取り入れはじめた。

 

スーラやシニャックらが使う点描法を使った新しい画家たちは新印象派と呼ばれた。印象派は、絵具をパレットの上で混ぜず小さな筆触をキャンバスの上に並べるという筆触分割の手法を生み出していた。これにより、絵具を混ぜて色が暗くなってしまうことを防ぎながら、視覚的には筆触どうしの色が混ざって見えるという効果が得られた。

 

しかし、印象派は、感性に基づいて筆触を置いていたのに対し、新印象派は、理論的・科学的に色彩を分割しようとした。ピサロはこれによって筆触の色の濁りや不鮮明さから逃れることができると考え、昔の仲間たちを「ロマン主義的印象主義者」、スーラやシニャックを「科学的印象主義者」と呼んだ。

 

新印象派の点描法を取り入れて生まれて絵画は、これまでの印象派の作品とは明らかに異なった。その1886年の第8回印象派展で出品し、またピサロは、スーラ、シニャック、ゴーギャンといった新印象派の作家たちの参加を主張した。

 

しかし、これまでの印象派作家たちは新印象派に否定的だった。その結果、モネ、ルノワール、カイユボット、シスレーは参加を見合わせ、また、ピサロや新印象派のスーラやシニャック、そして息子のリュシアン・ピサロらは別の部屋に展示することで妥協がはかられた。

 

最も注目を集めたのは、スーラの《グランド・ジャット島》であった。この第8回展は、実質的には、印象派の展覧会というより、新印象派、象徴派など、新しい運動の出発点となり、また最後の印象派展となった。新印象派や後期印象派などポスト印象派の問題を考えるとき1886年は印象派とポスト印象派を分かつメルクマールとなる重要な年となる。「新印象主義」という言葉ができたのもこの年で、美術批評家フェリックス・フェネオンがスーラの作品に対して名付けた。

《農園の子ども》1887年
《農園の子ども》1887年
La Récolte des Foins, Eragny (1887)
La Récolte des Foins, Eragny (1887)

新印象派からの離脱


新印象派の点描方法を取り入れたピサロだが、結局、あまりに人工的で不自然だということで性に合わず、新印象派から離れる。デュラン=リュエルも、ピサロの新しい画風に否定的で購入作品数は減少した。ピサロは友人に手紙でこのように書いている。

 

「4年間新印象派の理論で描いてみたが私は止めることにした。もはや自身を新印象派とみなしていない。この方法では自身の感覚に素直になることができず、結局、生命感や動きを与えることができない、自然の変化に富んだ効果に忠実でない、自分のデッサンに個性を与えることができない、などなどから、私は新印象派を断念しなければならなかった」。

 

その後、以前のスタイルにピサロは戻るが、「作品は以前よりも繊細になり、配色はより洗練されている。そのため、ピサロは老齢になるにつれて熟練度が高まった」とリュシアンは話している。

晩年


晩年ピサロは暖かい天候のとき以外に屋外で制作するのが困難な再発性眼感感染症に苦しんだ。このため、ピサロはホテルの部屋の窓際に座って屋外の景色を描きはじめた。より広い景色を見渡すためにホテルの上階の部屋を選ぶことが多かった。

 

その後、フランス北部へ移り、ルーアン、パリ、ル・アーブル、ディエップのホテルで同様に絵画制作を行なった。ロンドン訪問時にも同じように制作したと思われる。

 

1903年11月13日、ピサロはパリで死去。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

《雨の日:ルーアンのポントボーデリュー》1896年
《雨の日:ルーアンのポントボーデリュー》1896年
《ル・アーブル港に入稿する船》1903年
《ル・アーブル港に入稿する船》1903年

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