【美術解説】エドガー・ドガ「バレエ絵画で人気の19世紀画家」

エドガー・ドガ / Edgar Degas

バレエ絵画で有名な写実主義画家


《花のブーケとダンス》1878年
《花のブーケとダンス》1878年

概要


生年月日 1834年7月19日
死没月日 1917年9月27日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
スタイル 印象派、写実主義
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エドガー・ドガ(1834年7月19日-1917年9月27日)はフランスの画家、彫刻家、版画家。バレエを主題とした作品でよく知られており、実際にドガの作品の半分以上はバレエの絵である。

 

アングルの弟子ルイ・ラモットに師事したドガは、アングル同様にデッサンに非常に優れた画家である。また、バレエダンサーや競馬場の馬や騎手などの「動き」を描写するのが得意で、肖像画では、心理的な複雑さや人間の孤独性の描写に秀でていた。

 

ドガは印象派の創設者の一人とみなされており、印象派展の企画に携わっていたが、ドガ自身は自身が印象派と呼ばれることを嫌い、自身は写実主義であると主張していた。印象派のなかでは最も古典主義の強い作家である。

 

幼少の頃からドガは、歴史的古典絵画を描きたいと思っていたため、厳格なアカデミック訓練を受け、古典芸術の熱心な研究を行う。しかし、30代前半からマネの影響を受けて、スタイルをやや変更し、歴史的巨匠の伝統的な技術で現代の主題を描くようになり、モダニズム生活の古典画家と呼ばれるようになった。

重要ポイント

  • 作品の半分以上がバレエに関するもの
  • 「動き」を捕えるのが得意
  • 古典主義的技術で現代の主題を描いた

略歴


若齢期


ドガはフランスのパリのほどよく裕福な家庭で生まれた。フランス領ルイジアナ州ニューオーリンズ時代のクレオール(混血児)の母セレスティン・ムッソン・ドガと、銀行員の父オーギュスティン・ドガの間に生まれた5人兄弟の長男だった。

 

母方の祖父ジェルマン・ムッソンはフランス領ハイチ時代に生まれ、1810年にニューオーリンズに定住した。ドガは11歳のときにフランスのパリにある中学校リセ・ルイ=ル=グランに入学する。13歳のときに母が死去。その後、父と祖父がドガの少年時代に対して、強い心理的影響を与えるようになった。

 

ドガは幼少期から絵を描き始めた。1853年に文学のバカロレア(中等教育レベル認証の国家資格)を取得して、リセ・ルイ=ル=グランを卒業する。18歳でドガは自宅へ戻り、自室をアトリエにして絵を描き始めた。

 

卒業後、ルーブル美術館に写学生として登録したが、父は法律学校へ進むことを希望していた。1853年11月、パリ大学法学部に入学したが、彼はほとんど勉強する気はなかったという。

 

1855年にドミニク・アングルに出会い、ドガは彼を尊敬し、彼からのアドバイスを生涯忘れることはなかったという。「線を描きならさい、若者よ、とにかくたくさん線を描こう、そうすれば人生と記憶の両方で良い芸術家になれるだろう」とアングルはドガにアドバイスをした。

 

その年の4月、ドガはエコール・デ・ボザールへ入学。ドガは学校で、アングルの弟子ルイ・ラモットからドローイングやデッサンを学び、また尊敬しているアングルのスタイルを学び、腕を伸ばした。1856年7月、ドガはイタリアを旅行し、そこで3年間滞在することを決める。

 

1858年にナポリにいる叔母の家族のもとに滞在して、最初のマスターピース《ベレッリ一家》の習作を制作。この頃に、ミケランジェロ、ラファエロ、ティッツァーノなどのルネサンスの巨匠たちの作品を膨大に模倣した。

初期作品はおもに歴史画


1859年にフランス戻ると、ドガはパリへアトリを移し、そこで代表作の1つ《ベレッリ一家》の絵を本格的に描き始めた。この作品は、サロン・ド・パリでの展示を目的とした大きな絵画だったが、なかなか完成させることができず、1867年まで未完成のままになった。

 

また、この頃にさまざまな歴史画を描き始めた。代表的な作品は、1859年から1860年にかけて制作した《アレキサンダーとブエファファルスとジフタの娘》、1860年に《バビロンを建設するセミラミス》、1860年頃に制作した《若きスパルタ》などがある。

《ベレッリ一家》1858–1867年
《ベレッリ一家》1858–1867年
《バビロンを建設するセミラミス》1860-62年
《バビロンを建設するセミラミス》1860-62年

歴史画から現代の生活に主題が変化


1861年にドガはノルマンディーに住んでいる子ども時代の友人ポール・ヴァルピンコンを訪れ、そこで、馬の絵の習作を多数制作する。

 

1865年に初めてサロン・ド・パリで審査に受かり、《中世の戦争シーン》を展示したが、ほとんど注目を集めることはなかった。

 

次の5年間、毎年ドガはサロンに作品を出品したが、歴史画を応募することはやめ、代わりに《競馬-落馬した騎手》など、モダンライフを主題にした作品を展示しはじめた。このドガの主題の変化は、エドワール・マネからの影響であることが大きい。1864年にドガはルーブル美術館でベラスケスの模写をしているときにマネと出会った。

《競馬-落馬した騎手》1866年
《競馬-落馬した騎手》1866年

1860年代後半までに、ドガの画風は初期の歴史画から現代の生活を描写したものに変化した。競馬場のシーンは現代的な文脈で、騎手や馬を描く機会を与えた。ほかに、オフィス、工場、洗濯をする女性なども描き始めた。

 

1868年にパリ・サロンで展示された《バレエ、ミス・フィオレの肖像「夢の肖像」》は、最初の代表的な作品となり、ドガといえば「踊り子」というイメージを一般世間に植え付けるようになった。

 

その後、ドガの多くの絵画で、舞台裏やリハーサル中の踊り子が描かれるようになり、また、ドガは職務をこなすプロフェッショナルな踊り子という側面を強調して描いた。

 

《バレエ、ミス・フィオレの肖像「夢の肖像」》1868年
《バレエ、ミス・フィオレの肖像「夢の肖像」》1868年

ドガの絵は、かなり曖昧な形で、何かの物語を想像させる要素があった。たとえば《室内》は別名《強姦》と呼ばれる作品であるが、この作品ではランプの光のそばでの男と一部、服を脱いだ女との緊張した直面を描いている。

 

 場面の演劇がかった性格は、歴史家らに、作品の文献上の出典を探す気にさせ、たとえば、エミール・ゾラの小説『テレーズ・ラカン』などが下敷きになっているのでないかと提示されたが、どれも普遍的に認められていない。

《室内》1868-1869年
《室内》1868-1869年

1870年に普仏戦争が起きると、ドガは軍隊に入隊したため、絵画制作はほとんどしなかった。射撃訓練の際に、ドガは視力に欠陥があることが判明する。以後、目の問題は生涯気がかりなものとなった。

 

戦後、ドガは1872年にルイジアナ州のニューオーリンズで長期滞在を始める。そこで、弟やたくさんの親族と暮らした。エスプラーナ通りにあるミシェル・ムッサンにいるクレオール叔父の家に滞在している間、ドガは多くの家族を描写した作品を制作した。

 

ドガのニューオーリンズ滞在中の作品の1つ《ニューオーリンズのコットンオフィス》は、フランスで好評を博し、生涯で唯一の美術館買い上げの作品となった。

 

《ニューオーリンズのコットンオフィス》1873年
《ニューオーリンズのコットンオフィス》1873年

踊り子から「動き」を表現する


1873年にパリへ戻ると、翌年に父が死去。このときにドガは兄のルネが巨額の事業債務を貯めていることを知る。家族の評判を守るため、ドガは受け継いだ家や所蔵していた美術品を売り払い、兄の借金債務の処理に充てた。

 

その後、ドガは生涯で初めて、作品販売での収入に頼ることになり、1874年から数十年にわたって多くの素晴らしい作品群を制作することになった。

 

 

また、1870年に入ると、バレエを主題とする絵画をかなり増える。バレエが絵が増えた理由として、兄が債務で破産したあと、ドガは借金を返済するため売れる絵を描く必要があり、そうしたなかでバレエの絵がよく売れたという部分も一部ある。

 

ドガは特に踊り子たちの姿勢やポーズに着目したが、それは「動き」を捕えるためである。《ダンス教室》では、斜め奥に向かう空間を螺旋階段が重層化し、多種多様な動きや身振りをした踊り子たちが分散して置かれている。

《ダンス教室》1974年
《ダンス教室》1974年

印象派や写真技術の影響を受ける


主題の変化とともに、技術も変化した。オランダ絵画の影響を受けた暗めのパレットから、鮮やかな色と大胆な筆使いを使う方法を得る。1876年の《コンコルド広場》のような作品での、大体な筆致は、人が動いているところを瞬時的に凍結させたかのような「動き」を感じさせる。後のスナップ写真の特徴を持つ作品をドガは描いていた

 

また、1874年の《舞台での踊り子のリサーハル》や1876年の《バレエ教師》のモノクロトーンの色調は、この頃に登場した写真への関心が伺われる。

 

ドガのパレット、筆使い、構成感覚の変化の根底には、当時の印象派運動と現代的な写真技術の両方から影響を受けていると思われる。1880年以降にドガは自身で写真撮影も始めている。

《コンコルド広場》1876年
《コンコルド広場》1876年
《舞台での踊り子のリサーハル》1874年
《舞台での踊り子のリサーハル》1874年

印象派展に参加


サロンに幻滅したドガは、サロンからの独立展示会を企画している若手画家のグループに参加する。このグループがのちに印象派と呼ばれるようになった。

 

1874年から1886年の間に、印象派の作家たちは、「印象派展」として知られる独立した展示会を8回開催した。ドガは印象派展を企画するリーダー的な役割を担い、1度をのぞいてすべての展示会に参加した。

 

ドガはよく印象派の作家として扱われるが、実際はそうでもなかった。印象派は1860年代から1870年代を起源としたが発展したが、ギュスターブ・クールベやカミーユ・コローなどの写実主義の画家も部分的に混じっていた。

 

しかし、ドガはグループ内でほかのメンバーと衝突することが多かった。そもそもドガは、グループ内のほかの風景画家やマネと共通したものがほとどんどなく、戸外制作をからかってもいた。ドガは基本的に保守的であり、印象派画家たちが起こした展示によるスキャンダラス騒動を嫌っていた。

 

また、ドガはメディアから展示会や参加したメンバーたちに「印象派」とレッテルを貼られ、俗化した言葉をあてがわれるのを嫌っていた。展示会には、ジャン=ルイ・フォランやジャン=フランソワ・ラファエリのような印象派とは無関係の作家も展示していたからである。こうした内部衝突があり、結果として1886年に印象派展と印象派グループは解散することになった。

 

美術史家のキャロル・アームストロングによれば、ドガは「私がしていることは、偉大な芸術家たちの研究と研究の結果である。インスピレーションや自発性や気心というのは私にはない」と自身の芸術思想を主張していた。それにもかかわらず、彼は他のどの印象派の作家たちよりも、印象派としてよく紹介されている。

影響を受けた作家


ドガのスタイルは古典芸術巨匠を深く崇拝し、彼らのスタイルを反映したものだった。特にドミニク・アングルやドラクロワから影響を受けている。

 

また日本の浮世絵のコレクションもしており、浮世絵の構図から多大な影響を受けている。ほかにイラストレーターのオノレ・ドーミエやポール・ガヴァルニからの影響もある。

 

エル・グレコのような巨匠作家をはじめ、マネ、ピサロ、スザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、エドワード・バードンといった同時代の画家の作品も多数収集した。アングラ、ドラクロワ、ドーミエの3人は、彼のコレクションの中でも特に崇拝していた作家だった。

晩年


 1880年代後半になると、ドガは写真へ関心を持ち始める。ドガはランプライトを使って、多くの友人の写真撮影を行った。ほかに踊り子、ヌード写真も多数撮影しており、それらの写真は、ドガのドローイングや絵画の下敷きともなった。

 

晩年になるにつれて、ドガは個人的な人生を持つことができないという画家の信念のために、孤立していった。1894年に起きたドレフェス事件論争で、ドガの反ユダヤ主義的な思想に走ったたため、ドガの友人だったユダヤ人たちが皆離れていった。

 

ドガの理屈っぽい性格はルノワールに非難され、ルノワールはドガに関して、「ドガはどんな生き物だったか!彼と友人になった人はすべて、彼と喧嘩別れしなければいけなかった。私は最後まで彼の友人だった一人だが、最後まで残ることはできなかった」と話している。

 

1907年の終わり頃からドガは、パステルで版画作品を制作するようなり、1910年後半には視力の低下にともなっておもに彫刻で制作をおこなう。1912年に作品制作をやめる。ドガは生涯独身で、1917年9月に亡くなる前はパリの通りを彷徨い歩いていたという。

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