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【美術解説】ギュスターブ・モロー「象徴主義の代表的な画家」

ギュスターヴ・モロー / Gustave Moreau

幻想絵画を探求した象徴主義画家


《出現》1876年
《出現》1876年

概要


 

生年月日 1826年4月6日
死没月日 1898年4月18日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 象徴主義

ギュスターブ・モロー(1826年4月6日-1898年4月18日)はフランスの画家。象徴主義の代表的な画家で、聖書や神話に独自の解釈を加えた描写で評価された。

 

写実主義や印象主義が流行していた時代に、モローはほかの作家や画家たちに、想像や幻想の世界を積極的に表現することを奨励した。

 

代表作は、後期の新約聖書に登場する女性「サロメ」を扱った絵画シリーズ。モローが描いたサロメは、「ファム・ファタール(運命の女)」のイメージとして、のちの象徴主義や耽美主義、世紀末芸術の作家たちに多大な影響を与えた。

 

初期から中期のモローは、おもにイタリア・ルネサンスやエキゾチシズムに影響を受けた作品で評価されていた。

 

 

1892年に美術学校の教師となり、ジョルジュ・ルオーやアンリ・マティスなど20世紀の前衛芸術家たちを育て上げたことでも知られる。

重要ポイント

  • 象徴主義の代表的な画家
  • 「サロメ」は、当時のヨーロッパ「ファム・ファタール」のイメージとなった
  • マティスやルオーなど20世紀の前衛芸術家を育てた

略歴


若齢期


ギュスターブ・モローは、フランスパリのセイント・ペレス通り6番地で生まれた。家族はミドルクラスだった。父ルイ・ジャン・マリー・モローはパリの建築家で、母アデーレ・ポリーン・デムティエは音楽に堪能な人だった。

 

ギュスターブ・モローは過保護に育った。15歳でイタリアに訪れたときに芸術に目覚める。18歳でエコール・デ・ボザールに入学し、フランソア・エドアード・ピコットのもとで絵を学び、1850年に学校を去った。

 

その後、新しいメンターのテオドール・シャセリオーのもとで学ぶ。彼の作風はモローに強い影響を与えた。モローは1852年に初めてパリ・サロンに出品した。最初にパリ・サロンに出品した作品《ピエタ》は、現在アングレームの大聖堂にある。モローはその後、《歌の歌からのシーン》や《ダレイオス1世》を1853年のサロンで展示した。1855年には《クレタ島の迷宮の中のアテナイの若者たち》を描き、パリ万博に出品した。

 

なお、このころからモローは、25年間、何度なくモデルとなって描かれてきた女性アデレード・アレクサンドリン・ドゥリューと恋愛関係を築く。

イタリア・ルネサンスの影響


1856年のテオドール・シャセリオーが亡くなったショックで、モローはしばらく絵画制作をやめ、公衆から姿を隠し自宅にひきこもる。心配した両親はモローに、再度イタリア旅行をすすめる。

 

そうして、モローは1857年からイタリアに滞在し、1859年には新しい芸術愛を発見する。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロといったイタリア・ルネサンスの芸術家に影響を受けた

 

1864年、モローはサロンに出品した《オイディプスとスフィンクス》で、モローはメダルを獲得する。この作品にはイタリア・ルネサンスの画家のアンドレア・マンテーニャやジョヴァンニ・ベッリーニの作品との類似性が見られた。

 

「ショーペンハウアーを読みながらマンテーニャの絵画を楽しむドイツ人学生が描いたマンテーニャの模倣のようだ」と評するものもいたが、その確かな輪郭と緻密な造形技術は、10年後、批評家や一般大衆から称賛され成功した証といえるだろう。

 

また、《オイディプスとスフィンクス》は、モローの最初の象徴主義の絵画の1つとみなされている。この絵画は現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館の重要コレクションとして保管されている。

《オイディプスとスフィンクス》1864年
《オイディプスとスフィンクス》1864年

「サロメ」シリーズと後年への影響


1870年代には作品が定型的でマンネリ化してきたという批判を受けてモローは悩みこむ。作風を新しく発展するため、数年間、パリ・サロンへの出品を中止し、新しい作風の開発にいつとめる。

 

そうして、1876年に制作した新約聖書の主題にした「サロメ」シリーズ《ハロルドの前で踊るサロメ》は、晩年のモローの作品性を決定付ける画期的なスタイルとなった。モローが描いたサロメは、当時のヨーロッパの「ファム・ファタール(運命の女)」のイメージを固定化し、のちにオスカー・ワイルド、オーブリー・ビアズリーなどがいたサロメのイメージに影響を与えた。

 

また、象徴派のデカダンス小説家ジョリス=カルル・ユイスマンは『さかしま』(1884)のなかで、主人公が偏愛する画家としてモローを挙げて話題になる。『さかしま』で言及されたモローの「サロメ」シリーズ作品《出現》でサロメの前に出現するヨハネの首は、のちの象徴主義や、世紀末芸術のルーツともなった。

《ヘロデ大王の前で踊るサロメ》1876年
《ヘロデ大王の前で踊るサロメ》1876年

晩年


1890年3月28日、25年連れ添ったアレクサンドリン・ドゥリューが死去。彼女の死はモローに大きな影響を与え、この時期以降彼の作品はよりメランコリックになっていった。彼女はモローと同じ墓地に埋葬されている。

 

イタリアやオランダなどほかの国へ旅行し、出版物を読むことで、モローは独自の芸術様式に発展した。モローが読んでいた最も重要な書物はオーウェン・ジョーンズの『装飾の手引き』や、オーギュスト・ラシネの『服装の歴史』、フレデリック・ホットテロスの『服装』である。これらの本の影響により、モローは人間だけでなく動物、建築、記念碑なども描いた。

 

また、モローは古典芸術で画業をはじめたが、エキゾチックなイメージを取り入れることで、神秘的でユニークな芸術様式となった。

 

モローは1891年10月にパリのエコール・デ・ボザールの教授に就任。生徒にはアンリ・マティスジョルジュ・ルオーらがいた。

 

モローは生涯の間に、油彩、水彩、ドローイングを含めて8000以上の作品を制作した。彼の作品は次の象徴主義世代、特にオディロン・ルドンや21世紀初頭にベルギー象徴主義を牽引したジャン・デルヴィルに影響を与えている。

 

モローの作品の多くは、パリにある国立ギュスターブ・モロー美術館に所蔵されている。アンドレ・ブルトンはモローをシュルレアリスムの先駆者として見なしている。日本の芸術家、天野喜孝はモローに影響を受けている。天野はインタビューで「自分の絵柄や個性がわからなかったので、モローやミュシャの作品を真似していった」と話している。

 

モローは1898年に胃がんで死去し、パリのシメディエール・ド・モンマルトル墓地の親の墓に埋葬された。