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【芸術運動】印象派「空間と光の変化を描いた19世紀の前衛芸術運動」

印象派 / Impressionism

空間と光の変化を描いた19世紀の前衛芸術運動


クロード・モネ「印象・日の出」(1872年)
クロード・モネ「印象・日の出」(1872年)

概要


印象派または印象主義は、19世紀後半にフランスで発生した芸術運動。当時のパリで活動していた画家たちのグループを起源としている。

 

印象派の画家たちは、1870年代から1880年代にかけて、フランスの保守的なアカデミー美術展覧会「サロン・ド・パリ」に反発して、独立した展覧会を開催した。この展覧会に参加していた画家たちを一般的に印象派という。

 

印象派という名前は、クロード・モネの作品《印象・日の出》に由来している。この絵がパリの風刺新聞「ル・シャリヴァリ」で批評家ルイ・ルロワから批判されたのをきっかけに、「印象派」という新語、または印象派グループが生まれた。

 

印象派の絵画の特徴として、以下の点が挙げられる。

  • 小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク
  • 戸外制作
  • 近代化されたパリとその周辺世界
  • 空間と時間による光や色の変化の描写
  • 描く対象の日常性
  • 人間の知覚や体験という重要な要素としての動きの包摂
  • 斬新な描画アングル

 

印象派が現れた当初は、美術的な評価もされず、絵も売れなかったが、しだいに金融家、百貨店主、銀行家、医者、歌手など一般ブルジョア市民層の間で支持されるようになった。また、宗教色の弱い自然や農村や都市の生活といった日常的な主題のおかげで、プロテスタントやユダヤ教徒が中心のアメリカで、特に受け入れられるようになった。

おもな印象派の作家


印象派誕生の背景


印象派はクールベマネ写実主義、ほかにバルビゾン派を継承して、西洋近代絵画を牽引した、19世紀フランスを代表する前衛的な画家グループとみなされている。

 

モネの風景画やルノワールの裸婦像などが代表的な印象派作品と紹介されることが多く、現在、「印象派」が西洋近代絵画史の主流として確固とした地位と人気を確立しているのは疑いえない事実である。

 

しかし、19世紀後半のフランス絵画界においては、印象派は異端な存在であり、マイナーな存在だったことに注意したい。当時の主流派はあくまでパリの王立美術アカデミーの画家たちだった。毎年アカデミーで開催される公募企画展「サロン・ド・パリ」の審査に通過して、作品が展示されることが、この時代の一人前の画家になる条件だった。

 

しかし、この時期はサロン・ド・パリを主とする「アカデミック・システム」から、画商や批評家の支持を主とする「画商・批評家システム」へと次第に移行していく時期でもあった。アカデミックの美術制度の外で、画商や批評家などの支援者を得て、自由で新しい表現を模索する前衛芸術家たちが、社会的な面でも経済的な面でも活躍できる時代になりつつあった。

 

自由で独創的な表現が、画商や批評家たちから支持を得られるようになった理由は、フランス革命から始まる個人主義に重きを置く近代的な価値観が、特にブルジョア層の間で共有されていたのは間違いない。

 

ドラクロワロマン主義クールベの写実主義はそうした近代的個人主義の動きの前触れであり、マネや印象派もその延長線でとらえることができる。

 

印象派の画家たちは、1860年代後半にパリのバティニョール街を本拠地とし、その地区のクリシー広場に面したカフェ・ゲルボワに集った。マネとドガを中心に画家、文学者、批評家たちが議論を行い、印象派の母体となった。

 

印象派の経済的支援者となったのは画商ポール・デュラン=リュエルだった。またアカデミズムには拒否されたが、しだいに公衆の間で印象派の作品は受けはじめた。

印象派の誕生


1860年代後半から、マネやドガらと美術的価値を共有する「独立派」的な画家たちは、年に1度、サロン・ド・パリで開催される展示会を企画する保守的な芸術アカデミーから、サロンへの出品を拒否されるようになった。当時、たとえサロン・ド・パリの審査に通過して展示できても、ほとんどの印象派の画家たちは、保守的な批評家や公衆から批判を浴びていた。

 

そこで、1873年の後半に、モネ、ルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらは、「画家、彫刻家、版画家等の美術家による共同出資会社」を組織し、サロン・ド・パリとは別の独立した展示を企画をする。

 

展示はサロン・ド・パリ開幕の2週間前である1874年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールの写真館で、共同出資会社主催によるの第1回グループ展を開催した。のちに「第1回印象派展」と呼び改められる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。

 

正式名称は「画家、彫刻家、版画家等の美術家による共同出資会社」の第一回展であことが示しているように、芸術家たちの協同組合のようなもので、現実には印象派風の作品だけでなく、画風や様式の異なる芸術家たちの作品が混在していた。

 

この第1回印象派展で、モネはこの展示に参加する画家のグループに永続的な名称となる作品《印象、日の出》を展示した。《印象、日の出》は、1872年にモネによって描かれた油彩作品で、ル・アーブルの港の風景を描いたもので、当時のモネはカミーユ・ピサロやエドゥアール・マネが扱う主題や描き方に影響されていた。

 

第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァ』紙上で、美術批評家のルイ・レロイが、モネの絵画のタイトルから「印象派展」という見出しを付けて、この展覧会のレビューを掲載する。

 

「この絵はいったい何を描いたのかな。カタログを見たまえ」

「《印象、日の出》とあります」

「印象!もちろんそうだろうと思ったよ。そうに違いないさ。まったくわしが強い印象を受けたのだからこの中にはたっぷり印象が入っているのだろう・・・・・・。その筆使いの何たる自由さ、何たる奔放さ。描きかけの壁紙でさえ、この海景に比べればずっと出来上がり過ぎているくらいだ」

 

レビュー内容は酷評だったが、彼の酷評レビューをきっかけに、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、揶揄する意味で使われていたが、逆に当の印象派の画家たち自身によっても使われるようになった

 

また、印象派たちは自らを「独立派」と呼ぶことがあり、周囲からはカフェ・ゲルボワのあった場所にちなんで「バティニョール派」と呼称されることもあった。

 

印象派展は、1874年、76年、77年、79年、80年、81年、82年、86年の計8回開催された。

印象派が探求した表現


初期の印象派たちは、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが定めていた絵画のルールに反する描き方をおこなった。

 

■瞬時の風景をとらえる

その根底には主観的な感覚主義がある。現実をもはや不動の実体としてではなく、刻々と変化する現象として捉え、ある瞬間に個人の目に映った視覚世界を描こうとした。まぶしい光の輝きやうつろいなど、目の前に映った(感じた)一瞬のビジョンを捕えるのが、印象派の基本だった。風景をそのまま写実的に描くのではなく、風景によってもたらされた感覚を表現するのである。

 

■自由な色使いと筆致

印象派たちは、ターナードラクロワのようなロマン主義の作家を例にして、線や輪郭よりも、自由に色と筆を使って絵画を構成することを重視した。

 

■戸外制作

また、印象派はモダン・ライフの現実的な風景を描いたので、戸外制作が中心となった。印象派は屋外や吹き抜けがある場所で制作することで、日光の瞬時性や遷移をとらえられることがわかった。当時のアカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」を高く評価し、その他の絵は低俗とされていた。

 

■視覚効果の重視

彼らは、細部を緻密に描くことよりも、絵画全体を見たときに起こる視覚効果を重視し、混色と原色の絵の具による短い断続的なストロークを並べて、あざやかな色彩をそれが振動しているかのように変化させた。

 

印象派はフランスで現れたころ、海外でも同じようにイタリアのマッキア派やアメリカのウィンスロー・ホーマーらも戸外制作を探求しはじめていた。しかし、印象派はこれまでのアカデミーが教えてきたことと異なる新しい描き方を開発したのが大きな違いだった。

 

印象派の支持者たちが論じた要点を総括すれば「絵画の見方が変わった」ということである。瞬時性、動き、大胆なポーズや構成、鮮やかで多彩な色使いで表現された光の芸術こそが印象派の要点だった。

印象派の発明「筆触分割」「色彩分割」


印象派でモネを中心に開発された新しい手法は筆触分割、あるいは色彩分割という技法である。

 

筆触分割とは、絵の具をできるだけ混ぜ合わせず、原色に近い絵の具の小さなタッチを並べること。これにより、画面全体に明度と輝きが維持され、躍動感が高まり、微妙な色調の変化や空気の揺らぎを表現することができるようになった。

 

色が混ざるのは、これまでのようなパレットの上ではなく、私達の網膜の上ということになる。印象派は、絵具をパレットの上で混ぜず小さな筆触をキャンバスの上に並べるという筆触分割の手法を生み出していた。これにより、絵具を混ぜて色が暗くなってしまうことを防ぎながら、視覚的には筆触どうしの色が混ざって見えるという効果が得られた。

 

典型的で教科書的な印象派の作品といえば、アルフレッド・シスレーの作品といえる。彼は首尾一貫して戸外制作で、印象派画法を保ちつづけた。

 

1900年頃、アンリ・マティスがカミーユ・ピサロに会ったさい、マティスが「典型的な印象派の画家は誰か?」と尋ねると、ピサロは「シスレーだ」と答えたという。美術史家のロバート・ローゼンブラムは、シスレーを「最も汎用的な特徴を持ち、非個性的で教科書として示すのに完璧な印象派絵画」と評している。

Flood at Port-Marly, 1876.
Flood at Port-Marly, 1876.
Rest along the Stream. Edge of the Wood, 1878
Rest along the Stream. Edge of the Wood, 1878

なお印象派は、感性に基づいて筆触を置いていたのに対し、のちに現れる新印象派は、理論的・科学的に色彩を分割しようとした。

 

ピサロはモネやルノワールなどの初期印象派たちを「ロマン主義的印象主義者」スーラやシニャックを「科学的印象主義者」と呼んだ。

 

また、当時化学者ミシェル・ウジェーヌ・シュヴルールの色彩理論で指摘されていた、三原色(赤、青、黄)と第一次混合色(三原色の二つずつを混ぜてできる緑、橙、紫)を並置すると互いに鮮やかに引き立てあうという、補色の効果も巧みに使用されている。

 

ルネサンス以来の西洋絵画のリアリスム表現を根底から覆し、視覚の純粋性に基づく新しい絵画を志向した画期的な技術だった。

印象派と後期印象派


印象派たちの画家は、統一した理論のもとに足並みをそろえて活動していたわけではない。1877年の第3回展までは、それなりにまとまっていたが、それ以後はモネやルノワールを中心とするグループと、自然主義系の画家たちを加えたドガ率いる一派に分裂するようになった。

 

そして、1986年の第8回展では明らかにこれまでの印象派の筆触分割と異なる点描法を使ったジョルジュ・スーラやシニャックら新印象派、さらに印象派に批判的な象徴主義のルドンやゴーギャンらが参加し、実質的に印象派の解体、終焉となった。

 

「後期印象派」と印象派の差異を考えるとき、最後の印象派展とその開催年の1868年がメルクマールとなる重要な年であるといってよい。第8回印象派展は初期印象派メンバーの離脱と新印象派や象徴主義の台頭(総じて後期印象派)を示す展覧会と歴史的に位置づけられる。

 

後期印象派に続く

 

■参考文献

Impressionism - Wikipedia

・西洋美術の歴史7 中央公論社