【美術解説】ジャン・フランソワ・ミレー「崇高な農民の姿を写実的に描いた」

ジャン・フランソワ・ミレー / Jean-François Millet

崇高な農民の姿を写実的に描いた


《晩鐘》1859年
《晩鐘》1859年

概要


生年月日 1814年10月4日
死没月日 1875年1月20日
表現媒体 絵画
スタイル 写実主義、バルビゾン派
関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ジャン・フランソワ・ミレー(1814年10月4日-1875年1月20日)は、フランスの画家。フランスのバルビゾン派の創設者の一人。

 

写実主義運動の一部として位置づけられており、農家の人々の日常を描いた作品でよく知られている。

 

貧しい農民の姿を描いたミレーの作品は、理想的で高貴な絵画を描くことが主流だった美術業界から反発を受けた。

 

しかし、ミレーの農民絵画にはクールベのような写実的な暗さは感じられない。むしろ、農民を写実スタイルで崇高に描いている。ミレー自身もクールベのような社会的メッセージはなかったという。

 

ミレーの崇高に労働する農民画は、フランスよりもロテスタンティズムが強いアメリカやニューイングランド地方で高い評価を受けた。貧しい農夫婦がジャガイモを前に祈りを捧げる姿を描いた代表作の《晩鐘》は、アメリカ市民の間で人気が高く、複製品が多くのアメリカ家庭で飾られた。

重要ポイント

  • 現実の貧しい農民の姿を写実的に描いた
  • バルビゾン派のリーダー格
  • アメリカやイギリスなど海外でも人気

略歴


幼少期


ミレーはフランスの、ノルマンディー地方のグレヴィル=アギュの海岸沿いにあるグリュシー村で、農業を営む父ジャン・ルイス・ニコラスと母エイミー・アンリエット・アデレード・ミレーのあいだに、9人兄弟の長男として生まれた。

 

幼少のころ、村の代理牧師であるジーン・レブスリューの教えで、ミレーはラテン語や近代作家の教養を身に付けている。しかし勉学後、すぐに父の農業の仕事を手伝わなければならなかった。なぜなら、ミレーは8人兄弟の長男だったため、生活を支えるのが大変だったからである。

 

刈り取り、乾燥、種まき、束縛り、脱穀、あおぎ分け、肥料まき、などあらゆる農業に関する作業はすべて、幼少のころからミレーにとって馴染みの深いものとなった。こうした幼少の農作業体験がのちに芸術作品の源泉となった。

 

18歳のときに両親に絵画の才能を見出されたミレーは農業をやめて、独立してフランス北西部のシェルブールへ移り、ポール・デュムシェルという肖像画家のもとで絵を学ぶ。また、1835年までにシェルブールにいるアントワーヌ=ジャン・グロの弟子の画家ルシアン・テオフィル・ラングロワのもとで終日、絵を学んだ。

 

ラングロワやほかの人から生活や画業を支援されたミレーは、1837年にパリへ移り、エコール・デ・ボザールに入学する。学校ではポール・ドラローシュのもとで学んだ。しかし、1839年に奨学金がきれ、また初めてパリ・サロンに作品を応募するが落選した。

パリ時代


最初に応募した絵画の後、翌年の1840年に再びパリ・サロンに応募すると作品は審査に受かる。アカデミズムのお墨付きを得たミレーは、シェルブールで肖像画家として本格的に画業を始める。

 

シュルブールで出会った仕立て屋の娘ポーリーヌ・ヴァージニー・オノと1841年に結婚し、2人はパリへ移る。1843年のパリ・サロンに落選と結核によるポーリーヌの死を経て、ミレーは再びシェルブールへ戻ることになった。

 

1845年にミレーは新しい恋人カトリーヌ・ルメールとともにル・アーヴルへ移る。なお、彼女とは1853年に結婚し、2人の間に9人の子どもをもうけている。子どもたちはミレーの晩年をともに過ごした。

 

ル・アーヴルでミレーは肖像画や小サイズの風俗画を数ヶ月間描いて過ごし、その後、再びパリへ戻る。1840年代なかばころのミレーは、コンスタン・トロワイヨン、ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、シャルル・ジャック、テオドール・ルソーといった画家たちと親しくなりはじめる。彼れらはのちにミレーとともにバルビゾン派を結成した。

 

このころにオノレ・ドーミエの人物描写がのちのミレーの農民を主題とする描写に影響を与えている。また、アルフレッド・シスレーと出会い、彼はミレーの生涯にわたる支持者となり、最終的にはミレーの伝記も書いた。

 

1847年にサロンで初めて成功した作品《樹から降ろされるエディプス》が展示された。赤子の時に捨てられたエディプスが羊飼いの夫婦によって発見されるギリシア神話の場面を描いた作品である。また翌年の1848年に《もみ殻をより分ける人》が、内務大臣ルドリュ=ロランによって買い上げられた。

 

これがきっかけで、政府から注文を受けるようになり、本格的に画家として生計を立て始める。

《樹から降ろされるエディプス》1847年
《樹から降ろされるエディプス》1847年
《もみ殻をより分ける人》1848年
《もみ殻をより分ける人》1848年

この時期の代表作は、1848年にパリ・サロンで展示された《バビロンのユダヤ人捕囚》だろう。しかし、美術批評家や一般大衆はこの作品を蔑んだ。その作品は以後、消失してしまったが、歴史家によればミレーが自分で破壊したと考えられてきた。

 

しかし、1984年にボストン美術館で科学者がミレーの1870年の作品《羊飼いの少年》をX線検査をすると、作品の下に《バビロンのユダヤ人捕囚》から上書きされていたことがわかった。上書きした理由として、普仏戦争時にキャンバスの材料が不足したため上書きしたものだと考えられている。

《羊飼いの少年》1870年
《羊飼いの少年》1870年
《羊飼いの少年》の下にある《バビロンのユダヤ人捕囚》
《羊飼いの少年》の下にある《バビロンのユダヤ人捕囚》

バルビゾンへ移住


1849年、ミレーは政府からの注文で《収穫》を制作した。またその年のサロンで、《森のはずれに座る羊飼いの女》を展示する。

 

この作品は非常に小さな油彩画で、以前の理想化された牧歌的な主題からの転換を示しており、より現実的主義的で個人的な主題である。その年の6月、彼はカテリーナとと子どもたちとともにバルビゾンへ移住する。そこで、農民の生活と労働を主題とする作品を本格的に描きはじめ「農民画家ミレー」が誕生する。

 

1850年にミレーはアルフレッド・サンシエと契約を結び、絵画やドローイング制作の材料や費用を受け取った。また同時にミレーはフリーで、ほかのバイヤーにも絵画を売ることができた。

 

同年のサロンで、ミレーは《種まく人々》を展示。この作品は最初の主要なマスターピースとなり、《晩鐘》や《落穂拾い》とならんで初期代表作の1つとなったが、問題作となり、美術界にスキャンダラスを起こした。

 

保守派やブルジョアからは嫌悪感を覚えるものであると厳しく非難される一方で、左派からは農民の美徳をあらわしたものと評価された。ミレーにはクールベのような明確な政治的意図がなかったが、社会主義者や共和主義者たちが称賛した。保守派やブルジョアにとって、自分たちの脅かす存在となりかねない農夫の堂々たる存在感は、政治的にも心理的にも拒否感を覚えたのである。

 

また、同じサロンでクールベの《オルナンの埋葬》がスキャンダルになった理由も、ミレーへ作品の賛否両論と同じ構造である。

 

1850年から1853年まで、ミレーは《刈り入れ人たちの休息》を制作する。本作はミレーの最も重要な作品の1つであり、最も長期間をかけて制作されている。ミケランジェロやニコラ・プッサンといったミレーにとって英雄たちを意識した作品で、農民社会の象徴的なイメージの描写から現代社会の状況への移行を記録した作品だった。日付のついた唯一の絵であり、1853年のサロンで二等メダルを授与した作品でもある。

《種まく人》1850年
《種まく人》1850年
《刈り入れ人たちの休息》1850-1853年
《刈り入れ人たちの休息》1850-1853年

バルビゾン派と代表作《落穂拾い》


バルビゾン派はフランスの写実主義運動の一部で、当時主流だったロマン主義運動の文脈から発生した。運動期間はおおよそ1830年から1870年までである。

 

フランスのバルビゾン村が名前の由来となっており、バルビゾン村近くのフォンテーヌの森に多くの芸術家が集まった写実主義系の作家達のことを指す。

 

バルビゾン派のリーダー格は、テオドール・ルソー、ジャン=フランソワ・ミレー、シャルル=フランソワ・ドービニーである。広義にはバルビゾンを訪れたことのあるあらゆる画家を含めてそのように呼ぶこともあり、総勢100人以上に及ぶ。

 

なお、「レアリスム宣言」を発表したギュスターブ・クールベは、バルビゾン派には含まれていないが、同派と交流していることから、関連する重要な画家と位置付けられている。

 

1824年のパリ・サロンでイギリス人画家のジョン・コンスタブルの作品が展示された。彼の農村風景画は、当時の若い芸術家たちに多大な影響を与え、これまでの形式主義的な絵画(歴史画や神話を題材として絵画)を放棄して、自然から直接インスピレーションを得て絵を描かせる動機づけとなった。自然は劇的な出来事の背景ではなく、海外の主題そのものとなった。

 

1848年革命のときにバルビゾンへ集まった芸術家たちはコンスタブル的な作風を描こうと決意し、自然を主題にした絵画の制作をはじめた。こうしてフランス各地の風景はバルビゾンに集まった画家たちの主要なテーマとなった。

 

ミレーは自然主義的な写実絵画をさらに進めて、風景とともに農民や農民の労働風景も描いた。これまで人物画といえば、英雄や貴族、神話上の人物と異なり、当時、ブルジョア階級や貴族階級からすると「卑しい」と見られていた人々を描いたのが画期的である。1857年の《落穂拾い》が代表的な作品である。

《落穂拾い》はミレー作品で最も有名な作品の1つである。『種まく人』『晩鐘』とともにミレーやバルビゾン派絵画の代表作と位置付けられている。作品全体のあたたかい黄金カラーは、生き残るのに必死な農民の日常生活を、神聖で永久的なものとして描かれたものである。

 

ミレーはバルビゾンの農地を散歩しているとき、収穫後の畑に残された穀物を拾う貧しい女性と子供たちの風習「落穂拾い」を主題にした作品構想を7年もの間、考えていた。

 

ある日、ミレーは『旧約聖書』の「ルツ記」に関連する永遠のテーマを発見する。麦の落穂拾いは、農村社会において自らの労働で十分な収穫を得ることのできない寡婦や貧農などが命をつなぐための権利として認められた慣行で、畑の持ち主が落穂を残さず回収することは戒められていた。

 

1857年に《落穂拾い》をサロンに出品すると、サロンで議論を巻き起こした。保守派からは卑しいものであると厳しく非難される一方、左派からは農民の美徳を表したものと評価された。

 

制作にとりかかるのに長年の準備研究したミレーは、農民の日常生活における反復感覚や疲労感をどのように伝えるかがベストであるか考えていた。各女性の背中の輪郭線をたどるように農地の線が反復的に描かれており、それは彼女らの終わりのない、骨の折れる労働と同様のものであることを示唆している。

 

前景の大きな影のある農夫たちとは対照的に、後景には地平線に沿って朝日が穀物が豊かに積み重なった農場に降り注いでいる。

 

また、落穂を摘む女たちの暗い家庭用ドレスは、柔らかい金色の平野と対照的にたくましい形象で描かれ、農夫の女性に高貴性や記念碑的な強さを与えている

《落穂拾い》1857年
《落穂拾い》1857年

晩鐘


《晩鐘》はマサチューセッツ州、ボストンに住むアメリカのコレクター、トーマス・ゴールド・アプルトンに依頼されて制作された絵画である。アプルトンは以前、ミレーの知り合いでバリビゾンはの画家コンスタン・トロワイヨンの研究をしていた。

 

バルビゾンに隣接するシャイイ=アン=ビエールの平原に、晩鐘が鳴り響き、それを合図に農民夫婦が手を休め、「主の御使い(アンジェラス・ドミニ)」で始まる祈りを捧げる様子を描いた作品である。本作品は1857年の夏に完成していたが、その後、アプルトンは作品を引き取りにこなかったので、ミレーは画面背景に尖塔を追加して、1859年にタイトルを《晩鐘》に変更した。

 

1860年、ミレーはパプル男爵に1000フランで売却した。1865年に初めてパリで一般公開され、その後、さまざまな人の手に渡っていった。一部の人は芸術家の政治的同情の疑いがあると見なしていた。

 

ミレーが亡くなって10年後、アメリカとフランスの間で入札競争が起こり、数年後に80万フランの価格が付いてフランスのデパート王アルフレッド・ショシャールが購入した。1896年からオルセー美術館が所蔵している。

《晩鐘》1857-1859年
《晩鐘》1857-1859年

晩年


サロンで展示した絵画には賛否両論があったにもかかわらず、ミレーの評判や1860年代を通じて上昇していった。

 

1865年に別のパトロンのエミーユ・ガレが、3年間毎月奨励金が支払われる代わりに25の作品を制作する契約を行い、最終的には90作品ものパステル画を買い取ることになった。

 

1867年のパリ万国博覧会ではミレーの作品《晩鐘》が展示され注目を集めた。後年、フレデリック・ハートマンは25,000フランで《四季》を購入し、ミレーはフランス政府からレジオンドヌール勲章することになった。

 

1870年にミレーはパリ・サロンの審査員になる。後年、ミレーと家族は普仏戦争の影響でシェブールへ疎開することになり、1871年後半までバルビゾンに戻らなかった。

 

晩年は経済的に豊かになり、認知度がさらに高まっていったが、健康状態が悪かったため政府からの仕事依頼を断る機会が増えていった。1875年1月3日、ミレーはカトリーヌと宗教的儀式にともなって結婚する。カトリーヌの実家はブルターニュ地方ロリアンの貧農であったこともあり、ミレーの祖母や母はカトリーヌとの交際に大反対していたため、それまで結婚式を挙げていなかった。

 

1875年1月20日に死去。

ミレーの後世への影響


ミレーはヴィンセント・ヴァン・ゴッホに影響を与えた重要な画家である。特にゴッホの初期作品にミレーの影響が大きくあらわれている。ゴッホの弟テオとやり取りされた手紙の中で、ゴッホは何度もミレーについて言及している。1888年の《種まく人》などが、ミレーへのオマージュ的な作品である。

 

また、ミレーの後期の風景画は、クロード・モネのノルマン風景画の制作にも影響を与えている。ミレーの構造や象徴的な内容はジョルジュ・スーラにも影響を与えた。

 

ミレーは、マーク・トウェインの演劇『やつは死んじまった?』の主人公のモデルで、演劇の中でミレーは名声と幸運を獲得するため、偽造の死にもがく若い芸術家として描写されている。もちろん演劇上のミレーの行動や性格の大部分はフィクションである。

 

20世紀の芸術家ではサルバドール・ダリがミレーから多大な影響を受けており、ミレーの《晩鐘》がしばしば彼の作品内に描かれる。たとえば、《回顧的女性胸像》はミレーの《晩鐘》から着想を得た作品で、若い女性の頭部に置かれたパンの上に乗っている二人の人物は《晩鐘》で描かれている人物である。

 

多くの人はミレーの晩鐘の絵に対して普通はセンチメンタルなものを感じるかもしれないが、ダリは少し異なる。

 

ダリ独自の解釈によれば、胸に祈りを捧げて頭を垂れている女性は、無意識の性的欲求をしめしており、カマキリのポーズで男性を襲おうとする女性の性的パワーのあらわれだという。ダリは女性の中に眠る官能性に秘めらた危険性をカマキリに関連づけている。

 

一方の男性は帽子で股間を隠しており、頭をうなだれているが、これは男性の性的抑圧、または性的不安をあらわしているものだという。

ヴィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》
ヴィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》
サルバドール・ダリ《回顧的女性像》
サルバドール・ダリ《回顧的女性像》

 

■参考文献

Jean-François Millet - Wikipedia

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論新社

・世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」 木村泰司

 

関連書籍