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【美術解説】ジャン=ミシェル・バスキア「アメリカで最も重要な新表現主義の画家」

ジャン=ミシェル・バスキア / Jean-Michel Basquiat

アメリカで最も重要な新表現主義の画家


※1:《無題》1982年。前澤友作所蔵作品。
※1:《無題》1982年。前澤友作所蔵作品。

概要


生年月日 1960年12月22日
死没月日 1988年8月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、グラフィティ、音楽
ムーブメント グラフィティ、ストリート・アート新表現主義
関連人物 アンディ・ウォーホル前澤友作
公式サイト http://basquiat.com/
関連サイト WikiArt(作品)
※2:バスキアの肖像写真
※2:バスキアの肖像写真

ジャン・ミシェル・バスキア(1960年12月22日-1988年8月12日)は、20世紀における最も重要なアメリカ人アーティストの1人。ハイチとプエルトリコ系にルーツを持つ両親の間に生まれる。。

 

1970年代後半に、ニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのヒップ・ホップ、ポスト・パンク、非合法なストリート・アートなどが一緒になったアンダーグラウンド・シーンで、謎めいたエピグラム(詩)の落描きをするグラフィティ・デュオ「SAMO」の1人として悪評を成した。

 

1980年代にバスキアの新表現主義風の作品は、国際的に認知されるようになり、さまざまなギャラリーや美術館で展示されるようになった。1992年にはホイットニー美術館で回顧展も開催されている。

 

バスキアの芸術観は「金持ち」と「貧乏」「分離」と「統合」「外側」と「内側」など、二分法に焦点を当てて制作する「挑発的二分法(suggestive dichotomies)と呼ばれるものである。

 

バスキアは、歴史的な事件や現代社会問題を主題として、詩、ドローイング、絵画などテキストとイメージを織り交ぜながら、抽象的あるいは具象的に描く。

 

また、「個々に対する深い真実を出発点」として、作品内にそれらの要素を社会批評を通して表現する。詩は非常に政治的であり、遠まわしに植民地主義を批判し、また階級闘争を積極的に支援していることもある。

 

1988年、27歳のときにスタジオでヘロインのオーバードーズが原因で死去。

 

バスキアはよく高価なアルマーニスーツ姿で絵を描き、公衆の前でもアルマーニスーツ姿で現れる事が多かったという。

 

2017年5月18日のサザビーズのオークションで、ZOZOの前澤友作がドクロを力強く描いたバスキアの1982年作《無題》を1億1050万ドル(約123億円)で落札。バスキア作品として、またオークションでのアメリカ人アーティストとして最高落札額を更新した。

 

ほかに、バスキア作品を所有している著名人としては、デビッド・ボウイ(ミュージシャン)、マドンナ(ミュージシャン)、レオナルド・ディカプリオ(俳優)、ジョニー・デップ(俳優)、ラーズ・ウルリッヒ(ミュージシャン)、スティーヴン・コーエン(投資家)、ローレンス・グラフ(宝石商)、ジョン・マッケンロー(プロテニス選手)、デボラ・ハリー(ミュージシャン)、ジェイ・Z(ラッパー)などがいる。

重要ポイント

  • 新表現主義の代表的画家
  • 挑発的二分法という独自の芸術観を持つ
  • 前澤友作が作品を1億1050万ドルで落札している

作品解説


《無題(頭蓋骨)》


《無題(頭蓋骨)》1981年
《無題(頭蓋骨)》1981年

頭蓋骨に焦点を当てた作品は、バスキアの代表作品の中でよく見られる特徴である。

 

ザ・ブロード美術館が所蔵する1981年の《無題(頭蓋骨)》や、前澤友作が所蔵する1982年の《無題(頭蓋骨)》の2枚が代表的な作品であるが、これは、バスキアが7歳のときに母親から渡され影響を受けた『グレイの解剖学』のイメージを基盤に描いている

 

《無題(頭蓋骨)》は、バスキアが20歳ころに描いた初期キャンバス作品の一例として評価が高い。

 

ニューヨークの初個展で展示された1981年版は、当初タイトルがなく《無題》とされていたが、現在は一般的に《頭蓋骨》と呼ばれている。

 

バスキア作品の多くは数日で作られていたが、《頭蓋骨》の制作には数ヶ月と長期間を要している。この制作していたころのバスキアは初個展前であり、商業的成功のプレッシャーがあったためだという。

 

『グレイの解剖学』のほかに、ブードゥー教から影響を受けて制作していると見られている。頭蓋骨はブードゥー教のシンボルであり、またハイチ人であったバスキアの父が信仰していた宗教だった。

《無題(黒人の歴史)》


※13:《無題(黒人の歴史)》1983年
※13:《無題(黒人の歴史)》1983年

アンドレア・フローネによれば、バスキアの1983年の絵画《無題(黒人の歴史》は、エジプト人をアフリカ人として再評価し、かつ古代エジプト文明の概念を西洋文明の発祥地であることを示唆しているという。バスキアは絵画の真ん中に、エジプトの神オシリスの導きでナイル川を船でくだるエジプト人の姿を描いている。

 

絵画の右側のパネルには、「 Esclave、Slave、Esclave(奴隷)」という言葉が伏字のようにして描かれている。また、「Nile」という言葉が消されているとフローネは指摘しており、「その言葉は、たぶんエジプト人が黒人で、黒人が奴隷だったことを都合よく忘れようとする歴史学者の行動を、走り書きや伏字のようにして表現している」と批評している。

 

絵画の左側のパネルには2人のヌビア人の顔が描かれている。ヌビア人は歴史的に肌が黒く、エジプト人の奴隷として扱われていたという。

 

そのほかの部分は、大西洋の奴隷貿易のイメージと何世紀も前のエジプトの奴隷貿易のイメージを並列して描いている。中央パネルに描かれいてる鎌は、アメリカの奴隷貿易やプランテーション制度における奴隷労働に対して直接的に言及したものと見なされている。

 

左側のパネルに描かれた「salt(塩)」という言葉は、当時、大西洋の貿易で奴隷とともに取引されていたもう1つの重要な商品だった塩を指している。

《黒人警察官のアイロニー》


※14:《黒人警察官のアイロニー》1981年
※14:《黒人警察官のアイロニー》1981年

《黒人警察官のアイロニー》(1981年)は、アフリカ系アメリカ人が白人社会によって支配されているというバスキアの考えを表現したものである。

 

バスキアはジム・クロウ法(有色人種法)の時代が終わったあと、「制度化された白人社会や腐敗した白人政権」の建設に共謀したアフリカ系アメリカン人の姿を描写しようと考えているうちに、「黒人の警官」という皮肉なコンセプトを発見したという。

 

バスキアによれば、警察官は彼の黒人の友人、家族、先祖たちに同情すべきだが、まだ警察官は白人社会によって設計された制度に従っていうろいつ。バスキアは黒人の警察官に対して「黒い肌だが白い仮面を被っている」と話している。

 

作品内でバスキアは黒人警察官を「過大な総合力」を示唆するため大きく描いているが、一方で警察官の身体は細分化され、壊れたように描かれている。

 

黒人警察官の頭部を覆う山高帽は、当時のアフリカ系アメリカ人の白人社会における窮屈で独立した感覚や、白人社会内でにおける黒人警察官自身の窮屈な感覚を象徴している。

 

また、山高帽燕尾服を着た男の姿はハイチのブードゥー教において、死神「ゲーデ」を表し、バスキアのルーツであるハイチの伝統文化を引用している。

略歴


幼少期


ジャン=ミシェル・バスキアは、1960年12月22日にニューヨークで生まれた。兄のマックスが亡くなった直後に生まれたという。

 

バスキアは、母マチルダ・アンドラーデス(1934年7月28日ー2008年11月17日)と父ジェラルド・バスキア(1930年ー2013年7月7日)の間に生まれた4人兄弟の次男だった。バスキアの下には、ジーイーン(1964年生まれ)とリセイン(1967年生まれ)という二人の妹がいる。

 

父ジェラルド・バスキアはハイチのポルトープランスで生まれた。母マチルダ・バスキアはニューヨークのブルックリンでプエルトリコにルーツを持つ家庭に生まれた。

 

母マチルダは大の芸術好きだったので、バスキアは幼いころにによく彼女に美術館へ連れられ、また、ブルックリン美術館のジュニア会員にもされたという。

 

バスキアは4歳までに読み書きを覚える早熟な子どもであり、芸術家としての才能が見られた。バスキアの教師だったホセ・マチャドは、彼に芸術的才能を見い出し、母マチルダもバスキアに芸術的才能を伸ばすよう励ました。

 

1967年にバスキアは、芸術専門の私立校として名高いニューヨークの聖アンズ学校に入学する。この時代に友人マーク・プロッツォと出会い、二人で児童用の本を制作している。プロッツォがイラストを描き、バスキアは文章を書いている。

 

バスキアはスペイン語、フランス語、英語の本を読む多読家であり、11歳までにバスキアは、フランス語、スペイン語、英語を流暢に話すようになっている。また有能なアスリート選手でもあり、陸上競技のトラック競技に出場して活躍した。

 

1968年9月、バスキアは7歳のとき、道路で遊んでいるときに交通事故にあう。腕を骨折し、内臓も破裂する大怪我で、脾臓除去手術を受けることになった。

 

療養中の間、母マチルダはヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』をバスキアに手渡す。これがきっかけで、バスキアは解剖学に関心を持つようになる。母が手渡した『グレイの解剖学』は、バスキアの将来の芸術観に大きな影響を与えた。

※3:バスキアに影響を与えたヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』
※3:バスキアに影響を与えたヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』

同年、バスキアの両親が別居。バスキアと2人の妹は父親に預けられ、家族はブルックリンのボアラム・ヒルで5年間過ごしたあと、1974年にプエルトリコのサンフランへ移る。2年後、バスキアの家族は再びニューヨークへ戻った。

 

13歳のとき、バスキアの母は精神病院に入院し、その後、施設内外で彼女は過ごすことになる。

 

15歳のときにバスキアは家出をする。おもにニューヨーク、マンハッタンにあるトンプキンス・スクエアのベンチで寝て、日々を過ごしていたが、警察に逮捕されて父親の保護監察下となった。

 

バスキアは17歳のとき、エドワード・R・ムロー高等学校10学年時に退学する。その後、退学した美学生の多くが通うマンハッタンにあるシティ・アズ高校へ転入する。

 

父親は退学したバスキアを家から追い出したため、バスキアは友人のもとに居候する。当時、バスキアはTシャツやポストカードを手作りして販売して、生計を支えていたという。

グラフィティ・ユニット「SAMO」


バスキアはホームレスで失業状態からほんの数年間で、1枚の絵を最高額で25,000ドルで販売するまでになった。

 

1976年、バスキアと友人のアル・ディアスは、「SAMO」というユニットを結成し、匿名下でグラフィティ作品の制作をはじめる。マンハッタンの下層地区の建物に塗装スプレーを使ったグラフィティ・アートを多数描いた。

 

このころからバスキアは、SAMOのユニット名で、政治的で詩的なグラフィティを制作するアーティストとして次第に知られるようになる

 

1978年、バスキアは昼のあいだはノーホー区のブロードウェイ718番地の芸術地区にあるユニーク・クロシング倉庫で働き、夜になると近隣の建物にグラフィティ作品を制作して過ごす。

 

ある夜、ユニーク・クロシングの社長ハーベイ・ラッサックが建物に絵を描いている途中のバスキアに偶然居合わす。それから二人は意気投合し、ハーベイはバスキアの生活費を支えるために仕事を依頼するようになる。

 

1978年12月11日、『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌がグラフィティ・アートに特集を組む。

 

その後、バスキアとディアスの友好関係が終わると、同時にSAMOのグラフィティ活動も終了する。1979年にソーホーの建物の壁には碑文「SAMO IS DEAD」が刻まれた。

※4:1978年『『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌グラフィティ特集ののSAMOに関する記事。
※4:1978年『『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌グラフィティ特集ののSAMOに関する記事。
※5:ソーホーの建物の壁に刻まれた碑文「SAMO IS DEAD」。
※5:ソーホーの建物の壁に刻まれた碑文「SAMO IS DEAD」。

バンド活動「Gray」


1979年にバスキアはグレン・オブライエン司会の公衆TV番組「TV Party」に出演し、それがきっかけで二人は親交をはじめ、以後、バスキアは彼の番組に数年間定期的に出演するようになる。

 

同年、バスキアはノイズ・ロック・バンド「Test Pattern」(のちに「Gray」に改名)を結成し、おもにアレーン・シュロス広場で活動する。

 

Grayはシャロン・ドーソン、ミシェルホフマン、ニック・テイラー、ウェイン・クリフォード、ヴィンセント・ガロらで構成され、マックスズ・カンザス・シティやCBGB、ハレイ、ムッドクラブなどのナイトクラブで演奏をしていた。

※6:ノイズバンドGrayで演奏するバスキア。1979年
※6:ノイズバンドGrayで演奏するバスキア。1979年

映画やミュージックビデオに出演


1980年にバスキアはオブライエンのインディペンデント映画『ダウンタウン81』に出演する。同年、アンディ・ウォーホルとレストランで会う。バスキアはウォーホルに自作のサンプルをプレゼントし、ウォーホルはバスキアの才能を瞬時に見抜く。2人はのちにコレボレーション活動を行うようになる。

 

1981年にバスキアはブロンディのミュージックビデオ「Rapture」にナイトクラブのDJ役での出演する。

現代美術家として成功


1980年代初頭、バスキアはグラフィティ作家から、ドローイングやペインティングを中心とした美術家として本格的に活動をはじめる。

 

バスキアが初めて公的な展示会に参加したのは、1980年にニューヨーク7番街41番地の空き家の建物で開催されたグループ展「タイム・スクエア・ショー」である

 

このグループ展ではほかに、デイビット・ハモンズ、ジェニー・ホルツァー、リー・キュノネス、ケニー・シャーフ、キキ・スミスらが参加しており、Colabやファッション・モーダが後援していた。この展覧会がさまざまな美術批評家や学芸員の目に留まるようになった。

 

特にイタリア人ギャラリストのエミリオ・マッツォーリがこの展覧会でバスキアの作品に感動し、その後、バスキアをモデナ(イタリア)に招待して、最初の国際的な個展を開催した。この個展は1981年5月23日から1981年12月まで開催された。

 

1981年2月15日から4月5日まで、ニューヨークのロング・アイランド・シティにあるMoMA PS11で開催された『ニューヨーク・ニューウェーブ』展で、ナイトクラブ「マッド・クラブ」の創設者でアートキュレーターはディエゴ・コルテッツによって紹介された。

 

この展覧会はグループ展で、バスキアのほかにはウィリアム・S・バロウズ、キース・ヘリング、デヴィッド・バーン、ナン・ゴールディン、ロバート・メープルソープなど118人のさまざまな分野のアーティストの作品が展示された。

 

1981年12月、ルネ・リチャードが『Artforum』誌で『眩しい子ども』というタイトルでバスキアを紹介したのがきっかけで、世界中で注目を集めるようになった。

※7:『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。
※7:『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。

新表現主義グループ


1981年9月に、バスキアはアニーナ・ノセイ・ギャラリーと契約を交わし、1982年3月6日から4月1日まで開催される同ギャラリーでのバスキアのアメリカの初個展に向け、ギャラリー内で制作を行う。

 

このころまでにバスキアは、ほかの新表現主義と呼ばれるアーティストらとともに作品を定期的に展示するようになっていた。当時、バスキアとともに活動していた新表現主義作家は、ジュリアン・シュナーベル、デイビット・サル、フランチェスコ・クレモント、エンツォ・クッキらである。

 

1982年3月、バスキアは再びイタリアのモデナに滞在し、2度目の個展を開催する。また、同年11月からラリー・ガゴシアンがヴィネツィアやカリフォルニアに建てたギャラリーの一階展示スペースで制作をはじめる。

 

1983年に開催された展示のための絵画シリーズがここで制作されたものだという。ほかにスイスの画商ブルーノ・ビショフベルガーを通じてヨーロッパで作品を展示、販売していた。

 

バスキアは、当時無名の野心家だった歌手マドンナと交際しており、よくギャラリーに連れ込んでいたという。マドンナは1980年代前半に交際していたジャン=ミシェル・バスキアとの写真をインスタグラムに投稿している。

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ガゴシアンは当時について「すべてうまくまわっていた。バスキアは絵を描き、私はバスキアが描いた絵を売り、みんな非常に楽しんでいた」と話している。

 

また、「しかし、バスキアはある日「恋人が私と住みたがっている」と言ったので少し心配した。どんな人かと聞くと、「名前はマドンナで、彼女は大スターになるだろう」とバスキアは言った。そのときのこと決して忘れなかった。その後、マドンナがギャラリーに現れ、数ヶ月間滞在し、私たちは幸せな大家族のように過ごした」と話している。

 

このころ、バスキアはウェスト・ハリウッドにあるGemini 版画工房で、ロバート・ラウシェンバーグが制作していた作品に関心をもち、何度か彼を訪ねて、自身の創作におけるインスピレーションを得ていた。

 

1982年、短期間だけバスキアはデビッド・ボウイとコラボレーション作品を制作したこともある。

 

主要なバスキア作品の展覧会となったのは、1984年にスコットランドのエディンバラにあるフルーツマーケットギャラリーで開催された『ジャン=ミシェル・バスキア:絵画 1981-1984』で、ロンドンのイギリス現代美術館(1984年)、オランダのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館(1985年)、ドイツのケストナーゲゼルシャフト美術館(1987, 1989年)を巡遊する国際的な展覧会となった。

 

初回顧展は、バスキア死後に1992年10月から1993年2月にホイットニー美術館で開催された『ジャン=ミシェル・バスキア展』である。

音楽プロデュース


1983年にバスキアは、ヒップホップアーティストのラメルジーやK-Robに焦点を当てた12インチのシングルレコードを制作。「ラメルジー  VS K-Rob」と銘打たれたそのレコードには、同じ曲のボーカル版とインストゥルメントの2つのバージョンが収録されていた。

 

このレコードはタートゥン・レコード・カンパニーの一度限りのレーベルから限定500枚で発売された。現存しているレコードは300枚程度で、オークションで$1,500~2,000ドルの値段で取引されていたことがある。

 

カバーはバスキアが担当しており、レコード・コレクターとアート・コレクターの両方で人気を博した。

※8:Rammellzee VS K-Rob / Beat Bop
※8:Rammellzee VS K-Rob / Beat Bop

アンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動


1984年から85年の間は、あまり一般的に美術的評価がされなかったが、バスキアはアンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動を重点を置いていた時期だった。

 

スイスの画商ブルーノ・ビショフバーガーの提案により、ウォーホルとバスキアは1983年から1985年にかけてコラボレーション作品を制作している。最も有名なのは1985年に制作された『オリンピック・リング』で、前年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックから影響を受けて制作したものである。

 

ウォーホルは元の原色をレンダリングしたオリンピック五輪のさまざまなバージョンを制作、一方のバスキアは抽象的で様式化した五輪ロゴに反発するようにドローイングを行った。

※9:《Olympic Rings》 1985
※9:《Olympic Rings》 1985

晩年


1986年までにバスキアは、ソーホー区にあるアニーナ・ノセイ・ギャラリーから離れ、ソーホーのメアリー・ブーン・ギャラリーで展示するようになる。

 

1985年2月10日、バスキアは「ニューアート、ニューマネー:アメリカン・アーティスト市場」というタイトルの『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙になった。バスキアはこの時代に芸術家として成功をおさめたが、この時期にヘロイン中毒が悪化し、個人的な交友関係が壊れはじめていた。

 

1987年2月22日にアンディ・ウォーホルが亡くなると、バスキアは孤立を深め、さらにヘロインに依存するようになり、うつ状態が悪化する。ハワイのマウイに旅行している間は薬物はやめていたが、1988年8月12日にマンハッタンのノーホー地区近隣のグレート・ジョーンズ・ストリートにあるスタジオでヘロインのオーバードーズで死去。27歳だった。

 

バスキアはブルックリンのグリーン・ウッド墓地に埋葬され、ジェフリー・デッチが墓地が追悼スピーチを行った。

 

バスキアの遺産は、父ジェラール・バスキアが管理している。ジェラールはまたバスキア作品を鑑定する委員会を監督し、1993年から2012年のあいだに1000以上の作品鑑定を行った。鑑定された作品の多くはドローイング作品だった。

※12:1983年から1988年までバスキアが過ごした、マンハッタン・ダウンタウンのグレート・ジョーンズ・ストリート57番地にあるスタジオ。ここではバスキアは亡くなった。2016年7月13日、グリニッジビレッジ歴史保存協会によりバスキアの人生を捧げる盾が置かれた。
※12:1983年から1988年までバスキアが過ごした、マンハッタン・ダウンタウンのグレート・ジョーンズ・ストリート57番地にあるスタジオ。ここではバスキアは亡くなった。2016年7月13日、グリニッジビレッジ歴史保存協会によりバスキアの人生を捧げる盾が置かれた。

バスキアの芸術表現


ドローイングと絵画について


短い生涯のうちにバスキアは1500枚のドローイング作品、600枚の絵画、そのほかに彫刻やさまざまなメディウムを利用した作品を制作している。

 

バスキアは絶えず絵を描いており、紙が手元にないときは、しばしば周囲にある適当なものに直接描いていた。

 

かなり若いころからバスキアは、ファッションデザインやスケッチなど美術趣味があった母親と一緒にマンガ風の絵を描いていたいう。芸術家の才能があったため、絵を描くことが仕事の中心となった。

 

バスキアのドローイングは、インク、鉛筆、フェルトペン、マーカー、オイルスティックなど多くの異なるメディウムを使ってドローイングを制作されている。ときどき、自身のドローイング作品の断片をゼロックスコピーを使って、大きな絵画作品のキャンバスに貼り付けることもあった。

※10:《無題( (Axe/Rene) 》1984年
※10:《無題( (Axe/Rene) 》1984年

グラフィティ的な要素


絵画を描く以前のバスキアのキャリアといえば、パンクに影響を受けたポストカードを作っては路上販売をしたり、グラフィティ・シーンで「SAMO」という名前で政治的なグラフィティ作品を制作することで知られていた。

 

グラフィティ・アーティストとして活動を続けていくなかで、バスアキは絵画の中によくテキストを加えるようになった。

 

彼の絵は一般的に、単語、熟語、数字、絵文字、ロゴ、地図記号、図などあらゆる種類のテキストやコードで構成されている。またバスキアは建物だけでなく、さまざまなオブジェや物体にランダムに絵を描いている。

 

ある日、バスキアは恋人のドレスに「Little Shit Brown」という言葉を書いたが、バスキアは紙だけでなく、紙がなければそのあたりにあるもの、さらに他人の所有物にまで絵を描いていた。

 

あらゆるメディウムを利用して、それらを混ぜにして制作するスタイルはバスキア芸術の本質の1つである。 すべての媒体を利用した彼の芸術は、その創造のプロセスにプリミティヴィズム性を感じさせる。

 

生涯を通じてバスキアが影響を受け、絵画制作の参考にしていたのが、7歳のとき、交通事故で入院しているときに母親から与えられた『グレイの解剖学』の本である。イメージとテキストが混在したバスキアの絵、この解剖学の本の影響である点が大きい。

 

ほかに、ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』、レオナルド・ダ・ヴィンチのメモ帳、ブレンチェスの『アフリカン・ロック・アート』などにも影響を受けている。

ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』
ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』

1982年後半から1985年中ごろまで、バスキアはマルチパネルの絵画や木枠がむき出しになった個々のキャンバスに焦点を当てた作品を制作している。



■参考文献

Jean-Michel Basquiat - Wikipedia 2019年1月10日アクセス

http://www.jean-michel-basquiat.org 2019年1月10日アクセス

https://nme-jp.com/news/65280/ 2019年1月10日アクセス

 

 

■画像引用

※1:https://www.theguardian.com/artanddesign/2017/may/19/jean-michel-basquiat-110m-sothebys 2019年1月10日アクセス

※2:http://basquiat.com/ 2019年1月10日アクセス

※3:https://amzn.to/2shkRDB 2019年1月10日アクセス

※4:http://upnorthtrips.com/post/82840540812/samo-graffiti-boosh-wah-or-cia-village-voice 2019年1月10日アクセス

※5:http://flavorwire.com/226300/vintage-shots-of-jean-michel-basquiats-samo-graffiti/15 2019年1月10日アクセス

※6:https://www.abc.net.au/news/2018-07-10/basquiat-playing-with-band/9968124 2019年1月10日アクセス

※7:http://culturalghosts.blogspot.com/2015/04/jean-michel-basquiat-and-joy-of.html 2019年1月10日アクセス

※8:https://www.discogs.com/ja/Rammellzee-K-Rob-Beat-Bop/release/1190926 2019年1月10日アクセス

※9:https://gagosian.com/exhibitions/2012/jean-michel-basquiat-and-andy-warhol-olympic-rings/ 2018年1月10日アクセス

※10:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※11:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※12:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※13:http://thisisniceyeah.blogspot.com/2010/07/jean-michel-basquiat-untitled-history.html 2019年1月12日アクセス

※14:http://www.jean-michel-basquiat.org/irony-of-negro-policeman/ 2019年1月12日アクセス