【美術解説】メアリー・カサット「母子の絆を描いた女性印象派画家」

メアリー・カサット / Mary Cassatt

母子の絆を描いた女性印象派画家


メアリー・カサット《子供の誕生》1893年
メアリー・カサット《子供の誕生》1893年

概要


 

生年月日 1844年5月2日
死没月日 1926年6月14日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 印象派、写実主義
関連人物 エドガー・ドガベルト・モリゾ 
関連サイト WikiArt(作品)

メアリー・スティーブンソン・カサット(1844年5月22日-1926年6月14日)は、アメリカの画家、版画家。

 

ペンシルヴァニアで生まれたが、人生の大半をフランスで過ごし、そこでエドガー・ドガと親しくなり、印象派のメンバーと展示活動を行う。

 

カサットはよく社会風景やプライベートな女性の生活、特に母子間の親しい絆を強調する表現を行った。

 

カサットは、1894年にギュスターヴ・ジェフロワに「ベリト・モリゾ、マリー・ブラックモンと並ぶ3大女性印象派画家の1人」と描かれている。

略歴


幼少期


メアリー・カサットはペンシルバニア州のアレゲニー郡に住む中産階級の上流の家庭で生まれた。父のロバート・シンプソン・カサットは投資家で不動産投機で成功した人物だった。父は1662年にニュー・アムステルダムへ移民としてやってきたフランス系ユグノー教徒ジャック・コサールの子孫だった。

 

母のキャサリン・ケルソー・ジョンストンの親は銀行員だった。カテリーナ・カサットは教育あり、読書家で、娘のカサットの人格形成に大きな影響を与えてる。カサットの生涯の友人となるルイジーン・ヘイブマイヤーは記録にこのように書いている。「メアリー・カサットの母を知っている知る人なら誰でもすぐに、母の才能をカサットが受け継いでいるだろうと思うでしょう」。

 

カサットには遠い親戚に画家のロバート・ヘンライがいる。カサットは7人兄弟だった。兄弟の中の2人はなくなった。兄のアレクサンダー・ジョンストン・カサットは、のちにペンシルバニア鉄道の社長になっている。

 

カサット一家は、その後ペンシルバニア州のランカスターに移り、その後フィラデルフィアへ移り、カサットは6歳で学校に入学する。両親は海外旅行をすることが教育にとって大事であると考えていたので、彼女は5年間ヨーロッパを旅するように過ごし、ロンドン、パリ、ベルリンなど多くの主要都市を移動した。なお、ドイツやフランスで学んでいる間に、ドローイングが音楽を学び始めた。

 

1955年のパリ万博でフランス芸術家のジャン・オーギュスト・ドミニクやユージニ・ドラクロワ、カミーユ・コロー、ギュスターブ・クールベらの作品を見て、フランス絵画に影響を受ける。この展覧会ではエドガー・ドガやカミーユ・ピサロなど、のちに画家仲間やメンターとなる画家も参加していた。

 

美術学校時代


両親は、彼女がプロの画家の道へ進むことに反対したが、カサットは15歳のときにフィラデルフィアにあるペンシルバニア美術大学に入学し、本格的に絵画を学び始める。

 

両親のカサットへに対する不安の1つに、カサットのフェミニズム思想の関心や男性生徒たちからボヘミアン生活への誘惑があった。この学友の影響で、カサットや彼女のネットワークは生涯、男女平等の権利を主張していたという。

 

在学生の20%は女性だったが、ほとんどは商業芸術の方向を目指しており、プロの画家を目指している学生はほとんどいなかった。カサットは1861年から1865年まで学校に通った。当時、カサットと学友だったトマス・エイキンズはのちにペンシルベニア美術アカデミーの教師となった。

 

カサットは学校の授業スピードの遅さや、男性生徒や教師の態度に不満を持つようになり、自分で独自に巨匠芸術家の勉強し始める。彼女はのちに「大学で得られるものはなかった。女性は生身のモデルでデッサンできず、石膏モデルでデッサンを行った」と話している。

 

 

カサットは学校で学ぶのをやめので、学位を取得できなかった。その後、父親の反対を押し切ってカサットは母親とシャペロン(付き添いの女性)とともにアメリカからパリへ移る。

パリで学ぶ


カサットが勉強をやめたので、当時、学位を取得していなかった。その後、父の反対を押し切って、1866年に母親とチャペロンとパリへ移る。

 

当時、女性はまだエコール・デ・ボザールに入学できなかったので、プライベートで学校で巨匠から授業を受けることになり、ジャン=レオン・ジェロームのもと師事することになった。

 

カサットは毎日、ルーブル美術館似通い巨匠作品の模写で芸術的トレーニングを行った。また、ルーブル美術館は芸術的訓練をするための場所だけでなく、アヴァンギャルドな社交が行われるカフェの出入りが許されていないカサットのようなアメリカ人女性とやフランス人たちの社交場所としても機能していた。

 

カサットはこの時期に友人で画家のエリザベス・ジェーン・ガードナーや学者で後に結婚するウィリアム・アドルフ・ブーグローと出会った。

 

1866年の終わりまでに、カサットは風俗画のシャルル・シャプランの教室で絵画を学ぶ1868年にカサットはトマ・クチュールのもとで学び、生徒たちは田舎を旅行して、現地で農業生活などもした。

 

1868年に制作した《マンドリン演奏者》で初めて、サロン・ド・パリに入選し、またその年は友人画家のエリザベス・ジェーン・ガートナーもサロンに入選し、2人はサロンで展示された最初のアメリカ人女性画家となった。

 

《マンドリン演奏者》はカミーユ・コローギュスターブ・クールベのようなロマン主義風のスタイルで描かれたもので、彼女の芸術家としてキャリアにおいて、最初の10年間で制作した代表的な作品の1つである。

《マンドリン演奏者》1868年
《マンドリン演奏者》1868年

19世紀フランスのアートシーンにおける変化のプロセスは、クールベやマネのような過激な画家がアカデミーに反発したことから始まり、彼らに影響を受けた若い画家が印象派を作り近代美術シーンを作り上げていった。

 

カサットの友人のエリザ・ハロデマンは、「画家たちはアカデミーの様式に反発し、おのおのが新しい描き方を模索していった。その結果現在はカオス状態にある」と書いている。

 

そうしたなか、カサットは伝統的な方法で美術制作を続け、不満をつのらせながら十年以上にわたってサロンに作品を出品していた。

普仏戦争のためアメリカへ帰国


普仏戦争が勃発したため、1870年の夏の終わりにアメリカへ戻ると、カサットはペンシルバニア州のアルトゥーナの家族の元で過ごす。小さな町だったので画材やモデルを得ることが難しかった。父親は芸術活動にあいかわらず反対し、基本的な生活支援はしたものの、美術道具を購入することはなかった。

 

その後、カサットはニューヨークのギャラリーで2枚の絵を展示し、多くの称賛を得られたものの購入する人はいなかったという。

 

カサットは手紙で「私はアトリエをあきらめ、父親のポートレイトを引き裂さいた。私は6週間も筆にさわっていません。まだヨーロッパへ戻る見通しがたたない」と書いている。秋には西へ出て、仕事を探すつもりですがあてもなく不安です」と書いている。

 

1871年にカサットは気晴らしにシカゴを旅するが、運悪く1871年にシカゴ大火に遭遇して、初期作品の一部を消失する。

 

その後、彼女の作品はピッツバーグの大司教から注目を集め、パルマにあるアントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ作品の模造作品の制作依頼を受ける。これがきっかけで、カサットは再びヨーロッパの旅費と滞在費を工面することが可能になり、再びヨーロッパにわたることになった。

再びヨーロッパへ


カサットは1871年の秋にヨーロッパに戻り、美術活動を再開する。彼女の絵画《カーニバルに花を投げる二人の女性》は、1872年のサロンで審査に受かり、購入されるが、評価はあまりよくなかったという。

 

一方、カサットは、イタリアのパルマから非常に好意的な待遇を受けるようになり、その美術コミュニティから制作が支援されるようになった。大司教からの発注された絵画制作を完成させると、スペインのマドリードやセビリアを旅し、そこでスペイン人を主題として絵画制作を行う。代表作は1873年の《レース・マンティラを着たスペインの踊り子》である。

 

1874年に彼女はフランスへ移る。妹のリンダとアパートを借りてシェアして暮らすことにし、またアトリエをかまえる。カサットはサロンの政治性や保守的な絵画を批判するようになる。カサットはレオン・ボナやアレクサンドル・カバネルなど画家たちが尊敬していたサロンの絵画を見下し、すべての近代美術を厳しく批判した。

 

サロンに出品した女性画家の作品は、審査員に友人や保護者がいないかぎり、よく侮辱され却下されるとカサットはわかった。カサットの皮肉主義は、1875年に提出した2つの絵画の1つが却下されたのを機に高まった。

■参考文献

Mary Cassatt - Wikipedia

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