【美術解説】ピエール・ボナール「家庭風景など身近な題材を探求したナビ派」

ピエール・ボナール / Pierre Bonnard

家庭風景など身近な題材を探求したナビ派


《手すりの上の猫》1909年
《手すりの上の猫》1909年

概要


 

生年月日 1867年10月3日
死没月日 1947年1月23日
国籍 フランス
表現形式 絵画、版画家
ムーブメント 後期印象派、ナビ派
関連サイト WikiArt(作品)

ピエール・ボナール(1867年10月3日-1947年1月23日)はフランスの画家、版画家。後期印象派のグループの1つナビ派の創設者

 

ボナールは、メモを付けて憶を頼りに作品制作することを好み、参照としてドローイングを利用し、絵画において幻想的な特徴が見られた。

 

室内風景や家庭生活などの身近な題材に個人の内的な感覚を反映させるのが特徴で、よく知られている作品は、妻でモデルのマルト・ボナールを描いたものである。それは、演劇的であり、自伝的な内容である。印象派的な描き方であるが、主題はオランダ・フランドルの風俗画の系譜あるといえる。

 

 

20世紀初頭の印象派の遅れた開拓者として位置付けられており、独特な色使いや入り組んだイメージの作家として認識されている。「ボナールの魅力は色だけではない」「混ざりあった感情の情熱、滑らかな塗り、色彩のベール、予期せぬ謎めいた空間や神出鬼没で不安定な人物像の描写にある」と美術批評家のロバート・スミスは評している。

重要ポイント

  • ナビ派の創設メンバーの1人
  • 家庭生活や妻など身近なものを題材とした
  • メモをして記憶を頼りに描く

略歴


若齢期


ボナールは1867年10月3日、オー=ド=セーヌ県フォントネー=オー=ローズで生まれた。フランスの陸軍省の著名な役人の息子として、楽しくのんびりな少年時代を過ごした。大学時代は古典を学んだ。

 

父親の教育方針に従いボナールは法律学を学び、大学卒業後、1888年に弁護士として勤めた。しかしながら、ボナールはエコール・デ・ボザールやアカデミー・ジュリアンに通って、絵画を学びはじめ画家の道へ進むことを決めた。この時代に、ポール・セリュジエやモーリス・ドニと出会う。

 

1888年にはセリュジエを中心に、後にナビ派と呼ばれることになる画家グループを結成した(「ナビ」は「預言者」の意)。

画業初期


《チェックドレスを着た女性》1890年
《チェックドレスを着た女性》1890年

ボナールの初期作品《チェックドレスを着た女性》(1890)には日本の浮世絵の影響が見られる。1890年にエコール・デ・ボザールで開催された日本美術展を見て感銘を受けたという。

 

1891年、ボナールはトゥールーズ=ロートレックと出会い、年に一度開催されるアンデパンダン展で作品を展示した。

 

同年ボナールは雑誌『ラ・レビュー・ブランシェ』と関わりはじめ、エドゥアール・ヴュイヤールとともに扉絵を担当するようになった。

 

ボナールの才能は活動初期から開花し、1893年に批評家のクロード・ロジャー・マルクスはボナールについて「はかないポーズをつかみとり、無意識の振る舞いを掴み取り、最も過剰な表現で描写する」と評している。

 

また、1893年(1894年とも)に、後に妻となる女性、マリア・ブールサン(通称マルト)と出会う。これ以降のボナールの作品に描かれる女性はほとんどがマルトをモデルにしている。

 

ボナールの最初の個展は1896年にデュラン・デュエル画廊で開催された。

 

20代のボナールは、象徴主義的で精神的な作品制作を行う若手芸術家グループナビ派のメンバーだった。ナビ派にはほかに、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエなどがいた。

 

絵画にくわえて、ボナールはポスターや書籍のイラストレーション作家としても知られるようになり、また舞台芸術や版画制作も行った。1910年にパリを離れ、フランス南部へ移る。

 

ボナールは親友や歴史家から「無口」な人間として描写されており、出しゃばらずに孤高に活動していた美術家だった。ボナールの生涯を顧みると、比較的、「緊迫感や不幸な人生からの逆転」といった性質から遠いものだった。「生涯、安らぎがなかったドーミエのように、ボナールは60年に及ぶ画業においてゆっくり安定してキャリアを積んでいった。

《ピエール・ボナール、自画像》1889年
《ピエール・ボナール、自画像》1889年
ポール・ヴァレリーの詩の挿絵(1900年)
ポール・ヴァレリーの詩の挿絵(1900年)

作品


ボナールは激しい色使いが特徴である。彼の複雑な構図、家族や友人たちと庭で楽しんでいる風景画や室内風景の情緒あふれる描写が典型的だが、ともに演劇的で自伝的な内容である。ボナールは日常生活の風景を匂わせる表現を探求しており、しばしば「アンティミスム」と呼ばれた。

 

ボナールの妻マルトは何十年以上にわたって、常に存在する主題だった。マルトは食事の残りが乗っている台所のテーブル側に腰かけている絵でよくモデルとなっている。ほかに、バスタブで入っている絵画やヌード画のモデルも多くはマルトである。

 

ボナールはほかに、セルフ・ポートレイト、風景画、ストリートシーン、多くの静物画、その場合はたいていは花か果物の絵を描いた。写真を撮影して、色をノートにメモした後、ノートをアトリエで開いて描くこともあった。

 

「私が描く主題はすべて身近にある」「私は主題のある場所に戻って見直すことはなく、ノートを取る。その後、家に帰りノートに記載した事を反映するように絵を描きはじめる」とボナールは話している。

 

ボナールは同時並行するようにたくさんの絵を制作し、小さなアトリエの壁にそれらを貼り付けていた。この方法で彼は絵の形を自由に決めることができた。

《手紙》1906年
《手紙》1906年
《浴室》1907年
《浴室》1907年
《田舎のダイニングルーム》1913年
《田舎のダイニングルーム》1913年

晩年


1938年、シカゴ美術館でエドゥアール・ヴュイヤールとの重要な展覧会が開催されている。

 

ボナールは、1947年にコート・ダジュールのル・カネ近郊のセラ・カペウ通りにあった小屋で亡くなる一週間前に、最後の絵画となる《花咲くアーモンドの木の絵》を完成させた。

 

ニューヨーク近代美術館は、1948年にボナール作品の大回顧展を開催したが、もともとはボナールの80歳の誕生日を祝す予定の回顧展だったという。

 

ボナールは大衆の前にほとんど現れることがなかった、彼の作品は生涯を通してよく売れた。彼が亡くなったとき、彼の美術的評価はその後の美術業界における前衛芸術のムーブメントによって失われていた。

 

1947年にパリでボナールの作品の回顧的に評価する際、美術批評家はクリスチャン・ゼルヴォスは印象派との関連でボナールを評価して、彼を評価して欲しいと思ったという。アンリ・マティスは「ボナールは私たちの時代、そして当然ならが、後世にとっても偉大な芸術家である」と話している。